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援助修道会

援助修道会日本管区のHPです。心の旅をともに、主キリストとともに…

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ホームページも復活!

2017年4月24日

みなさま

主のご復活おめでとうございます。
長らく不具合によりホームページが開かずご迷惑をおかけいたしました。
この度、復旧いたしました。
また今後ともよろしくお願いいたします。

なお、援助修道会Facebookの方は、随時更新されておりましたのでこちらも
よろしくお願いいたします。

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2016年12月24日 クリスマススが来ちゃう!?

クリスマスイブの朝です。
昨日まで、「もうクリスマスが来ちゃいますね」「本当に明日がクリスマスイブ?」という声があちらこちらで聞こえてきました。
その声の奥にあるものを想像してみると、「クリスマスなのに心の準備が出来ていない・・・」
「クリスマスということはもう年末なのにするべきことが終わっていない・・・」というあたりでしょうか。
私も、頷きながら共感している状況でした。
さて、昨日は教会学校の子どもたちと、生活介護を必要とされている方々の施設のクリスマス会にご招待を受けてきました。楽しくクリスマスの歌などを歌って、茶話会に入ろうと小さなテーブルに着いた時です。そのテーブルに座っていた、一人の男性入所者の方が満面の笑みで、「うれしいね!」と声をかけてくださったのです。私も思わず「うれしいね!」と答えました。その後、子どもたちに自己紹介をさせていると、一人ひとりの名前を呼んで「〇〇くん!元気?」「〇〇ちゃん元気?」と聞いてくださったのです。子どもたちは恥ずかしそうにしながらも、うんうんと頷いていました。
このような出会いが、私をいやしたのは言うまでもありません。それからずっと考えていました。
「クリスマスは来ちゃうんだ」と。それは私たちの状況がどうであろうとおかまいなしに、神さまの方からやって来てしまうのだと。
そして私たちに告げるのです。「うれしいね!〇〇さん元気?」そのメッセージを受け取ったとき、私たちは、自分が置かれている次元ではなく「大丈夫」の次元に引き上げられる。それは思いもかけないことで、最初は戸惑ってしまうことかもしれません。それでも一人ひとりに呼びかけられる神さまは、私たちの応えを待っていてくださるのでしょう。それはポジティブじゃなくてもいい、どんなことでも神さまは耳を傾けてくださる。ひっそりとした小さな馬小屋はそのような話をするには最適な場所ですよね。
インマヌエル(神は私たちと共にいてくださる)私たちがどのような状況だとしても。

クリスマス、うれしいね!

 

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2016年11月3日 死者の月に思いをよせて

 

神のみもとに召されたわたしたちの家族や恩人、友人のために祈ります。誠実に生きられたこの方がたが、神さまのみもとで安らかに憩うことができますように。

 

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今日、援助修道会本部修道院では諸死者を記念するミサが行われ、多くの方とともにお祈りをおささげいたしました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」というコリントの信徒への手紙が朗読されました。
故人と私たちをつなぐ絆は、この世と後の世で祈り合うことで結ばれていると感じられる時を過ごしました。

 

 

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2016年5月15日  Happy Birthday 教会!

今日は私の通う教会で子どもミサが行われました。
神父さまがお説教の中で、「みなさん、教会のお誕生日はいつか知っていますか?」と子どもたちに問いかけられました。子どもたちの反応は、「クリスマス!」「復活祭!」・・・・
一人の子どもが、もじもじと手を上げて小さな声で「今日」と言ってくれました。
クリスマスや復活祭に比べて、教会の誕生日でもある聖霊降臨は地味なイメージがあります。
教派によっては、赤い服を身に着け、赤い色の食べ物を持ち寄り、赤いバラの花びらをまくといったようなシンボルを用いる教会もあるようです。しかし、日本のカトリック教会ではわりとしんみりとお祝いする印象があります。
とはいえ、聖霊を深く待ちのぞみ、この祝日の典礼に癒される経験をした方も少なくないはずです。
教会誕生の出来事によって、私たちは今もなお、イエス・キリストの出来事を体験することができます。教会があったからこそ、数々の修道会も誕生しました。
皆様方に出会えたことをあらためて感謝しつつ、聖霊の光がいつも希望へと導くものであることにゆだねながら賛美の祈りを捧げたいと思います。

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「船は目指す地に着いた」

4月は新年の1月とはまた異なる趣があるように思います。
入学式、入社式、新年度・・・フレッシュな空気が街中に漂い、入る側、受け入れる側も新たなステップを経験する季節になります。新たな出会いは豊かさと同時に緊張感や不安をももたらすものでしょう。

さて、今日私が出会った福音は弟子たちが船に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとする場面です。「暗闇」「強い風」「荒れた湖」という不安と恐れをかき立てるキーワードが続きます。新年度には似つかわしくないように思えますが、現実は毎日ピンク色ではないはずです。思わぬ状況に落ち込んだり、苦しんだりしながらやっとやっと進もうとする私たちの姿は、この弟子たちの乗る船のようです。

そんな状態なのに神さまは陸地に戻してはくれないのですね~
イエスは船に近づいて来られて「わたしだ。恐れることはない。」と言われ弟子たちはイエスを船に迎え入れようとする。
そうすると船は目指す地に着いた。と福音は述べています。

実はこの箇所に嵐がやんだとは書かれていないのですよね〜
イエスを迎え入れようとしたら船は目的地に着いたと。
これは今日の私の大きな気づきです。

どんな暗闇でも、どんな風が吹いても、荒れ狂う波にあっても、「わたしだ。恐れることはない。」と言われるイエスの声を見出したい。
そのために心の静けさを持つ時間を大切にまた1週間過ごしていきたいと思います。

2016年4月4日

 

みなさま、いつも援助修道会のホームページにお立ち寄り下さりありがとうございます。
新年度を迎え、ホームページの内容も新たに更新していきたいと思っております。

「みことばを味わう」のページはこれまで主日の福音についての分かち合いをさせていただいておりましたが4月からは会員によるエッセイのページとしたいと思います。
援助修道会会員が日々の生活の中で感じている主の福音をみなさまと分かち合える場になっていけますように。

 

 

 

 

 2016年3月27日 復活の主日

 

 主のご復活おめでとうございます。

 

2016年3月20日 受難の主日

         ルカ23・1~49

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

 

今日から聖なる週間が始まります。イエスに従う醍醐味を今週の典礼の中で、多くのキリスト者が味わうのではないでしょうか。受難の主日に読まれる聖書の箇所はイエスを取り囲む敵意をもった祭司長や律法学士、かれらにそそのかされる群衆、人々を恐れるピラトとヘロデ、イエスの十字架を担ぐキレネ人のシモン、エルサレムの婦人たち、十字架上のイエスを見つめる議員、民衆、兵士たち、十字架にかけられたイエスの傍の二人の犯罪人、出来事を見ていた百人隊長たちが出てきます。何と多くの違った人たちがイエスの周りにいるのでしょう。

 

祈っていると私もその中に居るように感じました。時にはイエスに敵意をいだく祭司長や律法学士のようだったり、イエスを十字架にかけろと叫ぶ群衆であったり、十字架の傍らにいる犯罪人であったりする私です。人々から罵られ、痛みつけられるイエスの傍で何もできない無力な私、いやもっとひどいのは苦しむイエスの痛みを感じず、無関心な私、時にはそんなイエスと関わりたくないと思い離れて行こうとする私を見出した時、私のイエスへの愛はどうなったのかと問いたくなりました。おそらく、「自分」中心である時、イエスから離れて「自分」中心に動き、イエスを知らないと言っているのでしょう。そんな私にイエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃるのです。何というイエスの大きな愛。このイエスを味わう時、私の心に大きな喜びが湧いてきました。

 

私の心を特に惹きつけたのは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」とおっしゃって息を引き取られたイエスの姿です。それはオリーブ山でのイエスの祈りを思い出させました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエスの十字架上の死はまさに神のご意志がイエスを通して行われたことを意味しています。父なる神のご意志に一致して生きることを望み、実際にそれを生きられたイエスに私の心は惹きつけられるのです。

のもとよしこ

3月13日(日)四旬節第五主日 ヨハネによる福音8章1-11

「わたしもあなたを罪に定めない」

 

2節 朝早く再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので座って教え始められた。

3節 そこへ律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに「先生、こういう女は石で撃ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。」

朝まだき澄み切った神殿の中、律法学者やファリサイ派の人々の中に立たされている女の人、そして地面に何か書き続けているイエス。そこには好奇心と蔑みとどんな答えをイエスが口にされるのかと、ある種のざわめきの期待を持って、女の人とイエスを見下して眺めている律法学者とファリサイ派の人々と、会衆の前にまともに己をさらけ出されて立っている女と地面に何かを書き続けているイエスのこの情景のコントラスト。

女の人は自分自身の有り様のすべてを憐れみの神にゆだね、またイエスは人々への憐れみと回心を待つ。ここにはざわめきも蔑みも無い。深い沈黙が漂う。一人また一人と立ち去ってしまい、イエス一人と真ん中にいた女の人が残った。

10節 イエスは身を起して言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」

11節 女が「主よ誰も」と。イエスは言われた「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。行きなさい。」

何という喜び、何という希望。イエスによってこの婦人は心底からの痛悔とイエスへの信頼の中に新しい生き方に入っていけた。このように悔い改めと回心によって日々新しい人となっていく喜びを自分のものにしたいものです。

のばやし ゆいこ

2016年3月6日 四旬節第四主日

             「放蕩息子のたとえ話」(ルカ15章1-3.11-32)

このルカ15章の放蕩息子のたとえ話に登場する人物は、「父」、「兄」、「弟」の3人です。
「父」は、「弟」の望みを聞いて「兄」と二人に財産を分けます。そこで「弟」は旅立ちます。しかし「弟」は放蕩の限りをつくし全ての財産を失ってしまいました。そして身を寄せた先で豚飼いをすることになります。

現在、私たちは、豚が結構綺麗好きであることを知っています。先日、私はインドの東ベンガル地方の某神学院の大きな敷地を案内され豚を飼っている場所を見ました。そこには良く手入れされたピンク肌の可愛い豚たちが、顔を寄せ合って眠っていました。豚のお世話をしている人もいました。

しかし、当時のユダヤ社会では、豚は不浄な動物と見做され、豚飼いは最も卑しい仕事の一つとされていました、ですから、「弟」のショックは大きかったと思います。「弟」は豚の餌であるいなご豆でも良いからお腹を満たしたい思いに駆られます。この惨めな身を低くする視座に立ち「弟」は真の自分自身に目覚めます。「父」のもとを去った時の自己の非を認めることになります。「弟」は、自身の弱さを認め、そこから立ち上がり和解の道を生きることになります。

「父」は帰宅した「弟」の非を責めるよりも只々「生きていて良かった」との思いで「弟」を受け入れ祝います。このことを知った「兄」は「父」の思いについていけずに「弟」を許せません。「父」は「兄」に「お前は、いつも私と一緒にいた。私のものは全部お前のものだよ」となだめています。ここでは、「弟」が、「兄」と和解する場面に至っていません。また「父」も共にいる息子たちに自分の思いが通じていません。「兄」は「弟」をどう受け入れるのでしょうか。この福音の前に読まれる2コリント(5章17節~21節)と重ねて、祈って見たらどうでしょうか?

                ひさもりたえこ

2016年2月28日 四旬節第三主日

「今年もこのままにしておいてください」

「今年もこのままにしておいてください」
回心の話しです。今日の聖書のテーマはぶどう園を持つ主人がぶどう園の中にいちじくの木を植え、実を探しに来たが見つからなかったので園丁に小言を言うと、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしだめなら、切り倒してください」と答えます。園丁がこの3年間にいちじくの木の手入れをしたかどうかはここでは分かりませんが、肥沃な土地に植えられ、手入れの行き届いたぶどう畑を想像すれば、いちじくが実る位の肥料は十分あったと思えます。いちじくの木が自ら実を結ぼうか、止めようかと考えることはないはずですから、この木は成長が遅いか、実がつきにくい木か、何らかの欠陥があるように思えます。果物の木を扱う園丁には分かっていたことでしょう。それでも園丁は進言します。「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って肥やしをやってみます」と。どうせだめかもしれないと、諦め閉ざしてしまわないで、希望のないところに希望をおいて「来年は実がなるかもしれません」と、執り成します。

ぶどう園の主人は御父。園丁はイエスさま。ぶどうは選ばれた人たち、いちじくの木はわたし。回心の遅いわたしのために、「もう一年待ってください」と御父に執り成しをしてくださるイエスさまに、ただただ感謝です。

               品川ヨシ子

2016年2月21日 四旬節第ニ主日

主のご変容

「これはわたしの子、選ばれたもの。これに聞け」

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ジョヴァンニ・ベッリーニ作「キリストの変容」

2016年2月14日 四旬節第1主日(ルカ 4:1-13)

「荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」

 今という地点から過去を振り返った時、歩んだ道に様々な出来事があったことを思い起こします。その時にはあまりにも必死すぎて、良し悪しまでわからなかったことも「今となっては」と温かいまなざしで振り返ることもあります。
自らの選びが神のみ旨なのか、そうではないのかよくわからないまま日常を過ごしている状態はまさに「霊に引き回されている」状態かもしれません。しかしここで霊と悪魔は別々に語られています。霊に引き回されている状態の中に登場する悪魔の誘惑は、わたしたちの選びの時に心に語りかけてくるのでしょう。
空腹という空虚感や孤独を満たそうとするもの、自らの富や権力に重きを置くこと、うまくいかない状態に陥ると神の存在をすぐ疑おうとする弱さ、その中での選びは悪魔に誘惑されなくともすぐ、弱さに傾いてしまう私が見えてきます。
情けなく、みじめで、見たくはない姿も「いつくしみの御父」に抱かれている手の中で安心して受けとめることが出来るように思います。その中でイエスが一つひとつ出してくださった選びの応答を深く味わい、その道にならうことができますように。

はしもとあきこ

2016年2月7日 年間第5主日(ルカ5・1-11)

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

私はこの箇所をイメージすることが好きです。
イエスの目にとまった船は、みすぼらしい上、全く魚が取れず落胆と苛立ちに満ちた
漁師が乗る船でした。
その船にイエスは乗り、人々に福音を語ります。
イエスと共にあることで、その船は喜びを伝える船となるのです。
しかし、そうなるためにはイエスを信じなければならないのでしょう。

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」とイエスはシモンに言われます。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」
そう言ってイエスの言葉を妨げようとする誘惑があります。

シモンのようにあと一歩信頼し「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」とイエスに従うことが大切であると思いました。

私たちの会の創立者が「神の愛のためにもう一歩の飛躍」という言葉を残しています。主の栄光が現れる希望に信頼を置き、イエスの呼びかけに「お言葉ですから」と応える恵み願いながらこの1週間を過ごして行きたいと思います。

橋本晶子

 

2016年1月31日 年間第四主日(ルカ4・21-30)

イエスがナザレの会堂で、イザヤ書を読み、「聖書の言葉は、今日、あなた方が、耳にした時、実現した。」と言われた。人々は驚きと称賛と共に、「ヨゼフの子ではないか」と呟く。イエスは「預言者は故郷では受け入れられないものだ」と言う。一方、人々は、己が利益になることには目敏い。そんな人々の心を知って居られるイエスの言葉に、会堂内の人々は憤慨し、イエスを町から追放し、崖から突き落とそうとするが、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

人の思惑と神の思いは明らかに異なっている。救いは万民の為ではあるが、優先順位があるようだ。身近な人こそと思うが、その人々はイエスを受け入れ難く、自ら後回しになって行く。今日、語られるイエスの言葉を、素直に受け、私たちの日常の中に居られるヨゼフの子が、通り抜けて、去ってしまう前に、「神の子キリスト」と気づく恵みを頂きたいものです。

かしわせゆりこ

 

2016年1月24日  年間第三主日(ルカ4・16-21)

「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

「捕らわれている人に解放を」…神を信じたことで、捕らわれから解放された。
昔は、目で見えるものの方が確実、神はいるかいないか分からない。空想上の産物かもしれないと思っていた。
でも聖書を読んで…今は、神は永遠で確実、信頼できる方、人間のほうはいつ死ぬか分からず、弱く不確かな存在だと思うようになった。
神が私を愛してくださっていると頭だけではなく、腑に落ちて信じるようになってから、自分を他者と比較することがなくなった。
劣等感や優越感に翻弄されることがなくなった。
自分が人から歓迎されているかどうかといった不安がなくなった。
イエスはどんな時でも私を歓迎してくれ、決して見捨てないから。
神に、愛されている。それを信じたら、心の中に安心と自由が生まれた。

イエスは言う。「ありのままがいい。」と。
神からありのままで愛されていることを信じていて、安心している。

きむら きょうこ

2016年1月17日 ヨハネによる福音2・1-11

「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」

1月17日、阪神淡路大震災から21年が経ちました。今思うと、新年の華やかさや色合いが一瞬にして奪われる出来事であったと思い起こされます。当時、長田区役所が最初のボランティア受け入れ場所となり、壊れた階段を何度も水を入れたタンクを持って昇り降りしました。いつもは自分が必要な時に水道を開けば出てくる水を、給水車を待ち、並び、運ぶ生活となりました。

今日の福音でイエスは召使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われます。
「召使いたちは、かめの縁まで水を満たした」のです。この作業がどれほどのことであったかを想像します。きっと水は井戸からくみ運んだに違いありません。婚宴の楽しい賑わいを感じながら、何度も何度も水を運んだのでしょう。

なぜこのようなことが出来たのでしょうか。召使いはそのような仕事だからでしょうか。
召使いといえども、ぶどう酒がないのに、水を入れごまかすようなことは本来不正義だと思っても不思議ではありません。ここにマリアのお告げと響く部分を感じました。
「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。(ルカ1:38)とんでもない!と思えるような出来事を前にも、不平不満を口にすることなく主人である神を信頼し従う姿があります。彼らはそれはどこから来たのかを知っていた・・・と記述されているとおりです。

私たちは、日々「願いを聞きいれてください」とお祈りします。それは大切な心からの祈りでしょう。しかし今日は、新たな祈りのパターンが示されたように思います。
「主よ、どうかあなたのみ旨のままに、そのとおりになりますように。」このように祈りながら水を注ぎ入れ続けることは、途方もないことに思えます。しかし、その水をぶどう酒に変えてくださる希望を、今日の福音で体験させいただきました。
阪神淡路大震災から21年、復興の陰で続く悲しみ、苦しみ、孤独、憤り・・・という深いおおきな水がめに水を注ぎ入れることを忘れてはならないように思うのです。マリアが見つめていた場、イエスが心に留められた出来事、そして、具体的な奉仕によって主の栄光が現されていく・・・そのような呼びかけに応えることができますように。

はしもとあきこ

 

2016年1月10日 ルカによる福音3:15-16 21-22

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」

福島県のある地方では、新年の10日に「十日市」という初市が立ちます。400年近く続いている伝統的なお祭りでその日に、新しい縁起物を購入するのが習わしです。それから数日後の小正月の夜に火祭り「歳の神」が行われ前年の縁起物がお焚き上げされるのです。雪の寒さの中で、パチパチと音を立て豪快に燃える炎を見ていると、身が清められるような思いになったことを思い出します。

また、清酒や醤油などの醸造でも「火入れ」という過程があり、殺菌や風味や色合いを引き立たせる重要な役目を担っています。日本でも「火」と清めは伝統と文化のあちこちに見ることができるのではないでしょうか。

さて、今日の福音ではイエスの洗礼を記念する箇所です。イエスも人々とともにヨハネから洗礼をお受けになりました。わたしたちが弱さに陥るとき、イエスもまたそこに留まっておられることを観想しました。そして十字架の死と復活による贖いは、私たちを清める炎のように感じられます。日々清めを受けている私たちは聖霊の息吹に養われ、「わたしの心に適う者」とされていくのではないでしょうか。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ:5章22~23)洗礼の恵みを思い起こし喜びのうちに歩めますように。

はしもとあきこ

 

2016年1月3日 マタイによる福音2:1-12

「わたしたち」

私は、ふらっと旅に出ることが好きです。それも一人旅が好きです。しかし、今日の福音では仲間との旅がどれほどすばらしいかを感じさせてくれます。
救い主の誕生を信じる仲間と歩む旅。それは「学者たち」「わたしたち」という共同体である力強さに満ちています。

「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきました。」

この力強い宣言は権力の前でも屈することなく、見つめる先は星の導きのみです。その心意気は新年を迎えた私たちの背中を押してくれるものではないでしょうか。大丈夫!信じて仲間と進みなさい。彼らにそう言われているような気がします。

「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」

彼らは到着します。信じていた場所に仲間とともに。そこは喜びにあふれている場所でした。
「旅する教会」を思う時、博士たちの旅路が重なります。預言者たち、使徒たち、殉教者たち・・・迷いながらも信じた大先輩たちの後姿を見つめながら、私たちも2016年を歩み出しましょう。
主の平和のうちに。

はしもとあきこ

 

2015年12月27日 ルカによる福音書2:41-52

「わたしたちは神の子」

幼子イエスさまをお迎えしてアレルヤ!
主の御降誕おめでとうございます。

降誕節の最初の主日に祝われる聖家族。聖家族のエルサレムへの旅が描かれています。帰路の途中に、イエスがいないことに気付いたヨセフとマリアは、イエスを捜しながらエルサレムへと引き返し、神殿の境内で教えているイエスを見つけます。「父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」というイエスの返答は、父の家にいることが何よりも最も大切であるということ、それはつまり「わたしたちは神の子」(第二朗読Ⅰヨハネ 3:1)であるということを強烈に伝えようとしているように思います。全てを与えたいと望む御父の愛によって、御子イエスさまはわたしたちの内に宿り、わたしたちを同じ神の子としてくださっています。それほどまでに愛されているわたしたちです。

ある日、教会のミサの会衆の中で手を合わせ祈る父の姿を見つけたとき、わたしは奇跡を目撃しているような感動に包まれたことがあります。何という喜び。わたしの父は一昨年に洗礼の恵みを受けましたが、それは母の帰天からおよそ1年後のことでした。どんなときも信仰の希望と神秘を生きて示してくれた母の生涯は、家族皆を御父へと連れていくために、家族皆がイエスさまと結ばれて神の子であることを識るようになるために捧げられた…、わたしはそのように思わずにはいられず、家族の歴史を導く慈しみ深い御父と両親への感謝は尽きることがありません。

喜びで満たされ、ときに葛藤で錬られながら、どうか家族の交わりが神の愛を伝える場となりますように。そして家族も地上も天上も、あらゆる境を超える神の子の交わりが隅々にまで広がってゆきますように。

みうらふみ

 

2015年12月20日 待降節第4主日 ルカによる福音1.39-45

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

マリアがもし「ムリです!私は」と言っていたら何も始まらなかったのでは?この気づきのうちにエリザベトの賛美の言葉が時代を超えて今、私の心に語りかけてきます。

今日の福音は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1.38)と信仰告白されたマリアさまの箇所と響き合います。そして主を通して出会った、二人の美しい響き合いを私たちも体験します。
実はマリアさまの言葉は、原文で「本当にわたしは主のはしためです・・」となっています。「本当に」に使われている言葉は「見る(behold)」を意味する「イドー」であることに気づきました。「見て下さい。わたしは主のはしためです。」というのが本来の意味であるようです。

「見て下さい主よ!」そこには様々な動きが感じられます。驚き、不安、疑問・・・・しかし主のおことばどおりになる道具(存在)としてここに私はここにおります。という信仰の現れが表現されているように思います。
こんなに小さな私に、主がいつくしみを注いでおられる。という大きな喜びで満たされていく待降節第4主日です。エリザベトとマリアの交わりを今日、信仰共同体の中で体験しながら「信じます」と信仰宣言できる恵みを願います。

はしもとあきこ

 

2015年12月13日 待降節第3主日 ルカによる福音3.10-18

「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」

先日、ある神父さまにバス停留所の話というのを伺いました。
待てども待てどもバスが来ないのです。40分くらい経ったときやっとここには行先のバスが来ないと知った。というエピソードでした。

このお話を伺い私は少々ドキッとしたのでした。私は今、どこにいるのでしょう。
今日の福音で群衆たちがヨハネに何度も尋ねます。「わたしたちはどうすればよいのですか」と。
「規定以上のもの」ではなく「自分の給料で満足せよ」とヨハネは示してくださいます。「わたし」個人、そして身近な小さな共同体である「わたしたち」へと広がる救いへの招き。あるがままの身の程に満足しなくても、みじめでも、弱くても、主はそこに来られる。自分が行きたい場所のバス停ではなく、主が共におられる心の最奥に向かうバス停で待たなければ。
今からでもまだ間に合います。いえ・・・どんなに遅れようと向かう先がわかっているなら主イエスは待っていて
くださるのでしょう。
灯された三つのローソクは明るさをさらに増し、私たちを導いてくださいます。信頼のうちに共に歩みましょう。

はしもとあきこ

 

2015年12月6日 待降節第2主日 C年ルカによる福音3.1-6

洗者ヨハネの宣教をもって始まる救いの歴史。
今日の主日ルカ福音書3章4節これは預言者イザヤの書に書いてあるとおりであると。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに でこぼこの道は平らになり人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』

この箇所を祈った時、遠い昔が思い出された。幼い頃より生活の中で、日々目にしていたことを・・・。

両親は毎朝まず早く東の太陽にむかって、両手を合わせて拝し神棚にサカキと水を捧げ、仏壇にお茶と食物そしてチーンと鐘を鳴らしてそれぞれ拝んでいた。
それらを何の感情もなしに眺め幼い日々を過ごし、両親の拝むものよりもっと広い見えないものがあるものではないかと心の中に折にふれてうごめくものがあった。少しずつ成長し思春期、女学生になるとますます探しても見つからない暗い時代にも、心はうごめいていた。しかし成人してはっきりと、この世界を創造された神、三位一体の神、御父、御子、聖霊の神に触れられた時の心の充満はうごかしがたい喜びとなったことが蘇がえる。

この世界を創造された神は、すべての人々を神の子となるために呼ばれている。
今「この地上の世界は、災難、国を追われている人々、危険にさいなまれ虐げられている人々、孤独、病気に苦しみ恐怖におそわれている人々など沢山の悩みを抱えている。しかし、「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり人は皆、神の救いを仰ぎ見る。
私たちは、どんなことが襲いかかっても、目を高く上げすべての人はみな、神の救いを仰ぎ見る。この神に根ざした信仰と希望を主に願い求めながら、主の降誕を待ちのぞみたいものである。

のばやし ゆいこ

 

2015年11月29日 待降節第1主日 ルカによる福音書21・25-28、34-36

「いつも目を覚まして祈りなさい」

今日の福音の箇所は終末の徴が書かれていますが、これは現に今の世界、社会に起こっているではないかと思いました。地震や思いがけない自然災害、また人間同士の争いなど、この箇所から現実に起こっている出来事が思い出されます。不安や恐れ、将来どうなるのかという思い煩いなどを現代
の多くの人々は抱えています。しかし、主イエスはご自分の再臨のこと、また「解放の時」が近いとおっしゃっています。そして主イエスを信じる人々に“心が鈍くならないように注意しなしなさい。・・・いつも目を覚まして祈りなさい。”、その日はいつ来るかわからないと警告しておられます。

私の心に響いた言葉は“心が鈍くならないように注意しなさい”でした。日ごろの生活を顧みる時、日常茶飯事に流されている自分を感じます。この日常性の中で主を見出すために「意識の究明」は欠かせないと思いました。「意識の究明」は忙しい生活の中で神を見出す具体的、効果的な方法です。不安材料や恐れ、思い患う出来事の多い現代社会の中で、それに引きずられないようにいつも神に向かい合う心をいただきたいと思います。“目を覚まして祈りなさい”とは自分の心を神に向けて、神からのメッセージを読み取り、感謝・賛美、喜び、願い、時には叫びを神に返していくことではないでしょうか?今日も自分に与えられた使命(重荷、苦しみ、十字架)や忙しい生活の中に主イエスを見出し、その主イエスに従っていくことが出来ますようにその恵みを願いたいと思いました。

のもとよしこ

 

2015年11月22日 王であるキリスト ヨハネによる福音18章33b-37

「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」

街を歩くと、すっかりクリスマスシーズンが到来したかのように思えます。しかし私たちは、終末のクライマックスを迎えています。
今日の箇所を味わい、私は「食い違い」のもどかしさを感じました。
ピラトの関心事である「この世」とイエスの示す「この世に属さない真理」の食い違いです。それは私自身の心に、確かに存在している弱さであることに気づかされます。

「もし私の国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人たちに引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

イエスの言葉は、問いかけます。あなたは今、何を見ているのか?どこにいるのか?と。
そして、この世の価値を求め、迷子になった一匹の羊である私を、探し抱え「真理」の道へまた置いてくださるのです。

私たちの王は、玉座の前にやってくるのを待っている方ではなく、自らが私たちのもとへ降りてきて、かがみ、手を差し伸べ、共に歩いてくださる方です。
ピラトが繰り返す「王なのか」という問いかけは、私たちにとっても大切な問なのかもしれません。

「あなたは、私にとって誰なのですか?」
そして力強く信仰告白ができる恵みを願いながら、待降節へと向かっていきたいと思います。

はしもとあきこ

2015年11月15日 年間第33主日 マルコによる福音13章24-32

「イチジクの木から教えを学びなさい」

イスラエルにはたくさんの果物があります。なかでもいちじくは大きく、甘味も果汁も充実していて、とてもおいしかったのを思い出します。日本に比べ、イスラエルのいちじくの木は大木です。大きな木が実をつけ始めると、それは見事で収穫時は忙しいことでしょう。きっと、毎年起こるこの出来事から、木の成長、実を収穫するタイミング、つまり“時”についての話題から、心の準備を怠らないようにと言われている気がします。

では、何故いちじくなのか。いちじくは、イスラエルのどこにでもある果物ですが、青い実をつけ始めると、数日のうちに大きくなり、熟し、放っておくと落ちるか鳥が来て食べてしまいます。子どもの頃にいつも見た、春から夏への風物詩です。

何の変哲もない毎日を生きているわたしたちが学ばなければならないことはただ一つ、身近なものの変化を通して、すべてのものには終わりがあることを知らなければならないと言われています。わたしたちは、終わりの日に向かっていること、その“時”を心得ること、その“時”に向かって準備することを学びたいものです。

品川 ヨシ子

 

2015年11月8日 年間第32主日 マタイによる福音12章38-44

やもめの献金

《イエスは賽銭箱の向かいに座って、群集がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、1人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クワドランスを入れた。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは賽銭箱に入れている人の中で誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は貧しい中から自分の持っている物をすべて、生活費の全部を入れたからである。」》

このみ言葉を聞くわたし達は、今の社会の様相と重なっている気がしませんか?
イエス様の姿、イエス様のお声が聞こえるようです。私は創立者の姿、創立から今に到るまでの会員の姿が、この貧しいやもめの姿に重なってきます。私たちはこのやもめの献金を捧げてこれたかな!と反省し、安心したり、勇気がでたりしました。生活費を全部入れてきたと思える小さな貧しい私です。

11月8日は“み摂理のマリア”の祝日。小さな修道会の創立を“み摂理のマリア“に奉献した創立者は、二つの鍵を聖母像の足元に鎖でつないでおかれたのです。このエピソードを記念して、院長様が「家族の会員たち」と聖母像の前で毎年祈ってきたのは、今は懐かしい思い出になりました。創立者が大切にしたのはこのような“こころ”やもめの献金の遺産ではなかったか!と。現代に生きるわたし達へのメッセージではないかと心に響き深く感動しました。主のお言葉通りに生きたい私たち、み摂理に奉献する私たち家族の宝を、今の世に証したい私たちへの招きではないでしょうか? また、第1朗読の列王紀上のエレミアと出合ったやもめの姿も同じ援助修道会の招きと感じました。エリアの言葉に従った彼女は家の物も、壷の粉も、瓶の油もなくならずに、主と共に働く事が出来て行くのだと、今更のように感動したのです。(列王記上17章10-16)

下條裕紀媛

 

2015年11月1日 年間第31主日 マタイによる福音5章1-12a

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

実習でケニアに滞在していた時のことです。
11月1日に教会や修道会で歌われているのが「聖者の行進」であることに、驚きと新鮮さを味わったことがあります。ゴスペルのみならず、身近でスタンダードナンバーになっているこの曲と諸聖人は日本では結びつきにくいかもしれません。

Oh, when the saints go marchin’ in  Oh, when the saints go marchin’ in
Lord how I want to be in that number When the saints go marchin’ in

聖者が行進していく時、ああ、聖者たちが行進していく時、
神さまどうか、私もそこに加えてください。
聖者が天国に向かって行進していく、その時に。

という歌詞から始まっているのですよね。

今日の福音を味わう時、なぜかこの賛歌が聞こえてくるように思えました。
「聖人」という言葉を聞くと、全きの清さのうちにこの世の生涯を過ごしたように、思われることもあるでしょう。しかし、その生涯を観てみると自分の心の貧しさに涙を流し、時には義に飢え渇く葛藤を経験し、無力さに打ちのめされた姿は少なくありません。にもかかわらず、迫害においてさえまっすぐに信仰を現したその強さはどこから来たのでしょう。
それはイエスの十字架による死と復活により示された、救いの業であると思います。一人ひとりのいのちがどれほど尊く愛に満ちているのかを示してくださいました。
喜びにあふれ、諸聖人の列に加えられたすべての方々にとりつぎを願います。
どうか、私たちがこの世における悩み苦しみのうちにも、主の愛に満たされていることを知り、おそれることなく神の国の実現を生きていくことが出来ますように。

いつか聖者の行進をできるその時まで。

はしもとあきこ

2015年10月25日 年間第30主日 マルコによる福音10章46-52

エリコの盲人

上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスの所に来たバルティマイの姿はまるでまな板の上の魚のようにピチピチと跳ね回る勢いに溢れた姿である。何もかもかなぐり捨てて、躍り上がった心の勢いが一直線にイエスに向かう。心底イエスに出会った人は自分の状況も状態も省みず、瞬時に越えてひたすらイエスに向かう。自分の力ではなく、ただただ恵みのなせる業。

エリコの盲人バルティマイは道端に座って物乞いをしていたと書かれている。 この現実を想像の翼を持ってながめるとバルティマイの哀れで悲惨な情景が浮かんでくる。 長い人生の中で失望を幾度味わった事だろうか。「もうダメ」「もうダメ」と何度あきらめたことだろうか。暗く辛い夜をどれ位過ごしたのだろうか?そのような深い底知れぬ体験があったからこそ、イエスと言う名を聞いたとたんにバルティマイの感性は瞬時に悟ったに違いない。「ダビデの子イエスよ!」「私を憐れんで下さい!」と声を限りに叫んだ。その力の限りの声は確かに聞き届けられ、「見えるようになりたい」と言うやむにやまれぬ願いはかなえられた。

目が見えるように懇願したバルティマイは見えるようになった以上に、イザヤ書43章にあるように《恐れるな、私はなたをあがなう》《恐れるな、わたしはあなたと共にいる》《わたしの目にはあなたは価高く,貴い》と言うわたしに注がれる神のまなざし、その根源に触れる体験をしたのではないだろうか。 闇から光に変えられたバルティマイはイエスに従った。光の体験は人を大きく変える。

古道重子

2015年10月18日 年間第29主日 マルコによる福音10章35-45

「人の子は仕えられるためにではなく使えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」

今日の福音は「世界宣教の日」にあたり、わたしたちが受けた福音は何か。そしてどのように証していくのかということが、はっきりと告げられている箇所ではないでしょうか。

教皇フランシスコは、「宣教はイエスと人々への情熱」であると、今日のメッセージで伝えています。さらに、とりわけ貧しい人、小さくされた人、病人、見下され忘れ去られた人、お返しのできない人に優先的に福音が告げられるべきだと述べています。今日の福音と響き合うメッセージとして私は受け取りました。

「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。」イエスはこのように弟子たちに教えています。

イエスは当時では生々しいほど現実的な「身代金」という言葉を用いて、ご自分のことを示されました。それは今でも私たちにとっては、強烈なイメージと情熱とで響いてきます。
「あなたのため」「わたしのため」の完全なる救いのための身代金・・・
身代金が払われて、自由な身となっているのに、喜べない、感謝できない、そんな不自由な私とはさよならをして、福音の喜びを生きる者として歩みたいと思うのです。

はしもとあきこ

2015年10月11日 年間第28主日 マルコによる福音10章17-30

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。
「あなたに欠けているものが一つある・・・・。」

今日の福音を味わう時、何か悲しい気持ちになるのはなぜだろう。
それは、イエスの言葉に気を落とし悲しみながら立ち去った青年が、鏡のように私を映しているからではないかと思う。たくさんの財産を持っていたから・・・。

今年の夏ごろからある本とライフスタイルが、若い世代で静かなブームとなっている。
そのキーワードは「ミニマリスト」と呼ばれ、最小限の持ち物で生活をする、いわゆるシンプルライフである。
それらの若者が口をそろえて言うのは、「空間」「落ち着き」「平安」である。

「行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・・それからわたしに従いなさい。」そう言われるイエスを前に、私は「今ちょっと手が離せないので。でもこれが終わったら・・・。」そう答えていないだろうか。鏡に映し出された私の悲しさはそういったところにあるのではないだろうか。
今日の福音はそのような私を、見つめ慈しむイエスに出会う。

もしかすると、ミニマリストというライフスタイルを歩み始めた彼らは、静かな空間の中で平安の神と出会っているのかもしれない。
私も神の慈しみの愛によってのみ生きるミニマリストでありたい。

はしもとあきこ

2015年10月4日 年間第27主日(創世記2章18-24節)

人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者をつくろう  創世記2章18節
主なる神が彼女を人のところへ連れてこられると、人は言った。
「ついに、これこそ 私の骨の骨、私の肉の肉・・・ 」 創世記2章22、23節

神は女をおつくりになった時、人を深い眠りに落とされたと聖書は書き記しています。
最初に造られた人は自分にふさわしい助けるものがどのように造られたのか、どこからあらわれたのか?知りません。神の創造の業はあくまで神秘でした。
しかし人は、神が連れてこられた相手を見て “私の骨の骨、私の肉の肉”と言います。

“ついに これこそ”と言う表現からもわかるように喜びと感動のうちに女をふさわしい助けてとして受けとめます。神の業であり傑作でもある他者をこんな言葉で受けとめられたら幸せですね!

もしかしたら今私たちの日常生活のなかで問われている、人と人との関わりや受けとめ方の原点と言えるかもしれません。今日、私が出あう人はみんな神が連れてこられたひとです。その出会いは同時に自分には何が必要だったかを知る機会にもなるでしょう。独りでは出来ないことです。人は人との関わりの中で神さまの似姿に成っていくことを示してくれます。しかも全く自分とは違う存在に出合い、受け入れ合う事を通して神の創造の業の偉大さに少しずつ目覚めていきます。やさしいことではありませんが時をかけながら人は人に成っていきます・・・。

ティク・ナット・ハンの2つの言葉も響いてきます。
I am here for you. あなたのためにここにいます。
I know  you are there and I am very happy.あなたがいてくれてとてもしあわせです。
そう言い合える人でこの世を一杯にすることを神は期待しているのかもしれません。

細川 祥子

 

2015年9月27日 年間第26主日 マルコによる福音書9章38-43,45,47-48節

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
はっきり言っておく。キリストの弟子だと言う理由で、あなたがたに
一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
(マルコによる福音9章40~41節)

人間は、いつの時代でも自分の考え、やり方で、又自分が理解できる範囲内で他人を判断し、その枠に入らない者を非難し攻撃する傾向があり、異質に見えるだけで、拒否し、迫害することさえあります。
真理は常に、一人の人間が把握できるより遥かに大きく、少数の人で、真理を独占するのも不可能です。自分が見ている以上の世界が存在することを信じるなら、異質なものへも寛容になることでしょう。異質なものとの出会いは、すべてを造られた神のみ前に出て、神の照らしを謙虚に願うよう私達を導きます。しかし、現実は厳しく、今も世界中で、自分の視点を絶対化する戦いが続いています。

他方、そんな中でも、渇いている人に一杯の水を提供する人がたくさんいます。キリストはその憐れみの心を持っている人々が報いを受けると言われるのです。その人々は、民族、国境、宗教も越えて憐れみの心に突き動かされて自分の身の危険も顧みず、相手が何者かも問わず、一杯の水を差し出す故に、その人々の救いをキリストが保証されるのでしょう。世界を変えるこの憐みの心こそ神から与えられる恵みであり、その恵みによって、知らない内に「幸いな者」と呼ばれる存在に変えられるのではないでしょうか?

(広島・幟町 小野島照子)

2015年9月20日 年間第25主日 マルコによる福音9章30-37

わたしたちの父なる神は、御ひとり子を『仕える者の姿』で世に送られました。今日の福音でイエスは、何の屈託もない一人の子供を抱き上げ『すべての人に仕える者になりなさい』と自ら生きて模範を示されます。

(マルコ9.33-37)

おそれおおいのですが、わたしはこの『イエスの仕える姿』を思うと、霊操〔167〕番の「謙遜の第三段階」を思い出し、全身が脈打つような熱い憧れと同時に、強烈な恐れに襲われるのです。以下に引用して記載してみます。


われわれの主キリストに一層倣い、実際上も似た者になるために、貧しいキリストと共に富よりも貧しさを望み選び、侮辱に飽かされたキリストと共に名誉よりも侮辱を望み、無用な愚か者と見なされたキリストのために、自分もこの世の智者、賢者と思われるよりは、無用な愚か者とみられることを望むのである。〔167〕

そして同じ霊操『注』には、『この大いなる段階にわれわれの主が自分を選んでくださるように切願する』と励ましています。
今、日本の教会はユスト高山右近の列福列聖を願って祈っていますが、上へ上へと志向する戦国時代の世にあって、この殉教者はまさに時流に逆らってこの道を生き抜き、模範を示されたのです。さて、安倍政権の時代にあって、我々の『選定』は如何に?

あべみつこ

2015年9月13日 年間24主日  マルコによる福音書8章27-35

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

私たち人間は人生において 「どうしてこんなことがおこったのか? なぜ私がこの病気に? なぜ私はこんな状況に陥ったのか? なぜ大切なものをうしなわなければならなかったのか?」といった、そのこたえをみつける難しいことに遭遇します。そして、私たちは、努力が実らないで失敗に終わるようなことや、様々な苦しみに打ちのめされるような体験をすることもあります。

受難による死と復活について話をされるイエスをいさめようとしたペトロにイエスは言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」この言葉は別の訳では「サタンよ、引き下がれ。あなたの思いは、神のものではなく、人間のものである。」(フランシスコ会聖書研究所訳注)とされています。

人間の思い神の思いは違っているとイエスは教えてくださいます。そしてご自身もゲッセマネで「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」(マルコ14.36)と祈られ、父なる神の思いに従い受難をうけとられました。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」強い決意を求められている言葉であると同時に、人間の思い神の思いは違っているというイエスの言葉とあわせて受け取ると、私たちを愛深い神への信頼と希望へと招くものであると私には感じられます。そして私たちにそう呼びかけるイエスは、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練にあわれた」(ヘブライ人への手紙4-15)方です。

私たちが十字架を担おうとする時、私たちの前にはイエスが歩いておられ共に息づかいを感じながら歩いていることをおしえていただきます。そして十字架を担う力が自分にはないようにさえ感じられても、そのイエスによって、その存在に触れることによって私たちは担う力いただくと信じています。

かきもり ちぐさ

 

2015年9月6日  年間第23主日   マルコ福音書7章31-37

    “そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、
「エッファタ」と言われた。”(マルコ7・34 )

最近、聴力が少し衰えてきた私に、今日のみことばは、力強い響きをもって、心と体に伝わってくる。

イエスの特徴ある動作、<天を仰いで深く息をつき、> それは、アッパ、父への信頼に満ちたイエスの姿、そして、今、目の前にいる哀れな一人の人間の救いを、深い呻きをもって、御父に執り成すイエスの息づかい。 私は、自分がこの場面の耳が聞こえず、下の回らない人自身に思えてきて、思わず「本当のことが聞こえるようにしてください。本当のことを言えるようにしてください。」と叫んでしまった。

私はいつから、聴力が歪み、聞き間違いや、聞き落しが生じるようになったのだろうか。<いつの間にか>という感じである。奇跡の力によって、健やかになったこの人を見て、人々は驚いて言った。

この方のなさったことは、すべて、素晴らしい。・・・

この驚きの叫びを聞くと、天地創造の時の神のお言葉の繰り返しがこだましてくる。

「神はそれを見て良しとされた」(創1章4,10,25,31)

主イエス、あなたの命の息吹によって、私を新しい命に生まれ変わらせて下さい。
真理の声が聞こえず、真理の言葉を発せなくなったこの危機的今の世界を、あなたの息吹によって新しく創造してください。それが可能であることを希望し、信じることが出来ますように。

でぐち ようこ

 

2015年8月23日 年間21主日 ヨハネによる福音書6章60-69

主よ,わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。

一日の終わりに、わたしは度々このシモン・ぺトロの信仰告白の言葉を振り返りの導入にします。今日一日、主がこの世界にわたしを派遣して下さり、霊の息吹で導いて下さっていることを感謝します。そして「今晩あなたのもとに戻っております。」と主に語ります。そして過ぎ去った一日の時間を恵みのうちに振り返ります。今日私を含め人間の弱さで傷ついている世界のいたるところに、あなたが下さっている慈しみに感謝します。

また、今日の沢山の出来事に主が命を与えて下さるのを観ます。

この福音の箇所に入る前、「わたしは命のパンです。このパンを食べるものは永遠に生きる」とイエスが語ることから、人々は議論し多くの弟子が去ったとあります。

そこでイエスは最も親しい12使徒に「あなた方も離れていきたいか。」と尋ねたのです。 シモン・ペトロは「主よ,わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」とより一歩踏み込んだ新しい主イエス・キリストとの関係に至るのです。

今日、このみ言葉に同伴され、復活のイエス・キリストを信じる者として、不信を退け、信頼を強め喜びに満たされ主日を祝いましょう。

ひさもりたえこ

 

2015年8月16日 年間第20主日 ヨハネによる福音書6章51~58

「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」

「食べ物」というと思い出すこと・・・以前働いていたホスピスで、「ウナギ弁当をヘルパーさんに買ってきてもらって、それを食べ、翌日に息を引き取られた人」のことを時々思い返します。癌の病気を持っておられましたが、最期まで好きなものを食べて楽しんでおられ、「人ってたくましいな、私もああなりたいな。」と思いました。皆が最期までそのように飲んだり、食べたりできるわけではないと思うのですが、「味噌汁」「お寿司」「果物」「アイスクリーム」「かき氷」など、食べ物のリクエストをしていかれた人々の顔と、その表情を思う時、どうやら食べ物は多くの人にとって、最も大きな楽しみの一つなのでは、叶えたい望みの一つなのではと思わされます。

ヨハネの福音書6章では、イエスが「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と言われています。「私の肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も私によって生きる。これは天から降って来たパンである。」(ヨハネ6章55~58)

食べ物は噛んで、のみこみ、体内に入って私と一つのものになります。まことの食べ物

が人と一つのものになることを招いてくださっている、その神秘を思う時、にわかには信じられない思いがしますが、いただきたいという望みもいただいていることに気づきます。

こばやし なおこ

 

2015年8月9日 年間第19主日(ヨハネ6.41-51)

わたしは、天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(ヨハネ6.50)

第二次世界大戦敗戦から70年のこの夏、そして広島、長崎の原爆のみならず、アジア・オセアニア各地であの戦争の犠牲になったすべての人々を思い起こすこの時期、日本社会の中で、国家として軍事力を行使することの是非とその範囲に関する熱い議論が渦巻いています。私たちもまた、この議論や何らかの意志表示の行為にいろいろな形で参加しながら、その議論のいちばん奥底で共鳴している、「いのち」を豊かに、十全に生きたいという叫びを聴く思いがしています。とりわけ若い世代の人たちがこういう思いで響き合い、関わり合い、つながり合っていく様に、とてつもなく大きな希望を覚えてもいます。

イエスは自分のことを「天から降って来た生きたパンである」と言います。そしてこの「生きたパン」は、父である神が引き寄せてくださって、イエスのもとに行くことのできる者、そして「信じる者」に与えられる「永遠のいのち」の糧であると言います。イエスのもとに言ってイエスと関わり、イエスを信じること。すなわちイエスとの関わりの中に入らなければ、この「生きたパン」に生かされて、「いのち」の充満にあずかることはできないのです。イエスとの関係そのものが「永遠のいのち」であるということなのでしょう。

「いのち」を豊かに十全に生きたいと願う人々の連帯の輪に連なって、自らを開き、「いのち」に招き入れてくださるイエスに一緒に繋がりたいものです。人々の関わり合い、つながり合い、「いのち」を求める共鳴そのものがまた、「いのち」の充満を生んでいくことができるように。

もり ひろこ

2015年8月2日 年間第18主日(ヨハネ6・24-35)

  「神の業」の前に  

 今日のヨハネ福音では、弟子たちが「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」とイエスに質問したことに対して、「神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である」とお答えになったことが記されています。

当然のことですが、人間はそんなにやすやすと何でも信じる人はいません。良く知っている人が言うことならまだしも、イエスがどういう方か分からない人にとっては、難しいことです。子どものように頭も心も柔らかく、自由で信頼に満ちたつながりがあれば「神がお遣わしになった」イエスを信じることも、イエスが今もパンの形でわたしたちと共にいたいと思って、自分をわたしたちに渡してくださっていることも、すんなり、喜んで受け入れることができるでしょう。

「信じる」ことができるのは恵みです。「神の業」は単純に心を開いて、子どものような信頼に満ちた柔らかい心をくださいと祈ることから始まるように思います。

しながわ よしこ

7月26日(日)年間第17主日B年

ヨハネによる福音6章1-15節

アンデレがイエスに言った。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にもたたないでしょう。」

「何千人もの群衆を前に、パン5つが何の役に立つか?」
私も時々、そんなあきらめの態度をとりそうになる時があります。
「100%できないから、やらないほうが良い。」と、良いことをするのを尻込みしたり。
「こんなちょっとじゃ、焼け石に水。」
「少なすぎて、役に立たない。」

だけど、たくさんの人が心からの贈り物をできる範囲で持ち寄ることを始めたら?
きっとたくさんの人が満たされていく。その愛の流れは目には見えなくても大河のように、うねりとなって続いていく。
愛である聖霊の流れ。
それは一滴からはじまる。

イエスの温かなまなざしは見ておられる。
いただいた賜物を小さな両手で差し出すその心を。
多いか少ないかは全く問題ではない。

ほんのちょっとの愛の持ち寄り、何かしらやっていこう。
イエスが私を見て微笑んで、祝福し、増やしてくださる。
イエスの御手に委ねよう。
誰かが愛で満たされますように。

きむら きょうこ

7月19日(日)年間第16主日 マルコによる福音6章30-34

飼い主のいない羊(マルコ6.34)

「いとしのムーコ」というワンちゃんとその飼い主小松さんの日常を描いた漫画がある。自営でガラス工芸を営んでいる小松さんは一人暮らし。ムーコをことのほか愛しており、ワンちゃんのムーコも小松さんのことをめちゃくちゃ愛している。二人(いや、一匹とひとり)は、言葉を交わすことができない。けれども、そこは漫画。ムーコはムーコの思い(?)を画面上で思いっきり表現する、「ことば」で。ムーコの思いは小松さんに通じない。小松さんは自分なりに考えたムーコの欲求を満たそうとする。そのずれが、なんとも言いようがなく面白い、思わず、わっはっはって声を出して笑ってしまう。

小松さんはムーコの飼い主なのだが、飼い主だからって、ムーコの思いを全部わかってあげているわけじゃない。「ことば」と「言葉」は通じないのだ。けれども、お腹がぐるぐるしていたら、小松さんは美味しいヨーグルトを食べさせて介抱してくれる。飼い主である小松さんはムーコを生かすこの世でたった一人の頼れる人なのだ。

一匹とひとり・・・というくらい、人間同士だって、言葉がぜんぜん通じないほど分かりあっていない。いや、自分自身のことだって、どれほど分かっているか。わたしが生きているのは飼い主が養ってくれているから。わたしの飼い主は目には見えない。けれど、飼い主は、わたしを飼ってくれて、食べさせてくれて、世話してくれる。飼い主のいない羊のような人間を見つめているイエスのまなざしが今日、わたしを見つめている。

 

はらけいこ

7月12日(日)年間第15主日 マルコ6.7―13

今日の福音の箇所を言葉一つ一つにとどまりながら読んでいくと、わたしたちキリスト者の生き方の精神がはっきりとここにあらわされていることに気づく。

イエスはまず呼ばれる。キリスト者になるためにまず呼ぶ。次に人々の中に派遣するために呼ぶ。その時のわたしの心も持ち方はただ一つ。物に頼らず、ただただ自分を任せることのみ。どなたに任せるのか。わたしを造られた方、そして今わたしを派遣される方に。派遣される場は具体的にいろいろな場があり、ある時は喜んで、ある時は抵抗しながらもそれがみ旨だと信じるだけの心で、それぞれの場に向かっていく。自分の力に頼るのではなく、その力さえも与えられているということを噛みしめながら、ひたすら与えられた場へ向かっていく。わたしたちの一生はそれだけである。神が与えられた場に誰が抵抗できようか、誰がはむかえようか。頭をたれながら、ありがたくいただくのみ、そしてそこで自分の力を100パーセント出し切って応えるのみ。そのような生き方が求められているのであろう。そのような生き方ができている、できていない、ではなく、それすらもすべてお任せしながら、生きていこう。

なかだくみこ

2015年7月5日 年間第14主日 マルコ6、1-6

「この人は、大工で、マリアの子・・・、預言者は故郷では敬われない」

イエスが宣教活動を始められる前に、共に生活をしていた町の人々にとっては、「このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と、驚く一方、人の傾きとして自分が理解できるレベルに、他者を引き下げ、または、引き上げたい欲があるが、そのような表れであろうか。ナザレの人々も以前、自分たちと生活を共にしていたイエスしか理解できず、「この人は大工で、マリアの子ではないか・・」と、イエスに対しての侮辱と軽蔑の目でしか見ることが出来ず、「このように、人々はイエスにつまずいた」のである。

そこで、イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と、明言され、また、そこでは、「ごくわずかの病人をいやされただけで、そのほかは何の奇跡を行うことがおできにならなかった」と、聖書は語っている。大事な点は、イエスが奇跡を行うことが「おできにならなかった」との箇所であろう。イエスご自身が奇跡を行いたいとお考えになったとしても、それを拒んでしまう人々の思いに、イエスのおこころは悲しい思いで「人々の不信仰に驚かれた」のであろう。

私たちの日常の生活においても、このような場面があるのではないだろうか。
三位なる神からの愛と恵みを知らず知らずの内に拒み、また、利己主義に生きていることにさえ気づかずに生活をしている私自身を、神の大いなる慈愛によって、神の神秘さを礼拝する信仰を深めていただけるよう、共に祈りたいと願っている。

高木慶子

 

2015年6月28日年間13主日 マルコ5.21-43

「タリタ・クム」

会堂長ヤイロは12歳になる愛娘が臨終の床にいるのでとても悲しんでいました。けれども彼は、心の中に希望を持ち続けてきました。群衆の中におられるあの方が、娘の病気を癒してくださるにちがいないとの希望でした。

私たちが神に置く希望に、神は必ず答えてくださいます。望んだ形、やり方で与えられる答えではないかもしれません。娘を癒してくださいと願ったのに娘は死んでしまいました。人々はヤイロをあざ笑いましたが、ヤイロは希望をすてませんでした。少女のそばに行かれたイエスは「タリタ・クム」(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)と言われました。少女は目を開きました。少女の目が見たのは自分の方へ屈みこんでおられたイエスの目でした。優しさ、慈しみ、励ましにあふれた眼差しでした。少女はすぐに起き上がって歩きだしました。それを見た父親ヤイロの大きな喜びは、私たちをも喜ばせてくれます。

私もイエスに目を向けましょう。イエスは慈しみ、励ましの目を向けてくださることでしょう。そしてその眼差しの中に「わたしについてきなさい」との呼びかけが読み取れるのではないでしょうか。日々の生活の中で人々と共に、イエスに答えるためにどのように生きていけばよいのでしょうか。真摯に探すならば、イエスはきっと助けてくださるとの
希望をもって歩いていきたいと願っています。

小南好子

 

2015年6月21日 年間12主日  マルコ4・35-41

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

オリンピックの体操選手、内村航平さんの演技には魅了されます。彼は幼い時から、トランポリンを楽しみ、宙を舞う技を身につけました。床運動の美しい姿は幼子がゆりかごの中で遊んでいるように見えます。

随分昔の話しですが、私は小学6年生の時、体操部に属していて、平均台、マット、鉄棒などの運動を楽しんでいました。ある日、自分の身長よりも高い鉄棒に腰掛けて、両手を広げ、後ろ向きに一回転して着地する技を先生から指導されました。初めての経験で怖かったので、反射的に、左手で鉄棒を握ってしまい、バランスを崩して回転は失敗しました。下で待っていた先生から、信頼して降りなかったことで酷く叱られたことを記憶しています。

今日の福音では突風に恐れた弟子たちが、あわてふためき、恐れる姿が描かれています。日々の生活の中で、理解できない出来事、思いどおりにならない自分や、自分とは違う相手に驚き、硬直してしまうことがあります。困難や失敗、腑に落ちない出来事に出会うとき、頼りにならないものにしがみつき、自由を失ってしまいますが、主は私を連れ出し、嵐の中で自分が何者であるかを分からせてくださり、主の大きな摂理に身を委ねるよう招いてくださいます。

海の扉を押し開くのも、かんぬきを付けるのも(ヨブ)自由にできるお方にすべてを委ねて安らかでありたいと切に望みます。

まつもとたかこ

2015年6月14日 年間第11主日  (マルコ4・26-34)

「神の国はからし種のようなものである。からし種はどんな種よりも小さいが、
どんな野菜よりも大きくなる。」

先月の30日にケニアから休暇で日本に帰ってきました。成田空港に近づくと一面鮮やかな緑の森に迎えられ「少し体を休めることが出来そう」と嬉しかった。

今日の福音の教えはそれほどむずかしいものではないので関連する私のアフリカでの体験を話させてください。四年前わが会のルワンダ管区のケニア共同体創立の一メンバーとして日本から派遣され、「聖書100週間」の英語版を使ってミッションをしている。はじめは英語でやることに躊躇。冷や汗をかきながらの毎日。今でも毎回の緊張感は変わらないが「100週間はすごくいいメッソド」という方々の励ましの言葉によって続けることが出来ている。ある時ナイロビの女子パウロ会が私の持ってきた原稿を1000部印刷して本にしてくださった。一年半で完売、今は二版が出ている。考えてもみなかったこの現象を前にして「どうしてこうなるのかしら?」(27節)と目をみはる。

でも私は知っている。「神様が、キリストを通して始められたアフリカでの神の国を、成長させてくださっているからだ」(集会祈願)。今やケニアで、ナイジェリアで、マラウィで、ルワンダで細々ながらですが100週間をやりだしてくださっている人達がいる。「人口の0.3%しかカトリック者がいないカトリック小国日本からの百週間は大いなる世界への貢献」と私に言ってくださった方もいる。日本人の勤勉さの実りとしての傑作「100週間」。

この言葉を聞いて大学時代多くのカトリックのミッショネールの先生方に育てられた私は今その恩返しが出来ているのかもしれないと思った。そしてこうも考える。近い将来は司祭、ブラザー、シスターになりたい人がたくさんおられる「いのち溢れるアフリカ諸国」から「福音の喜び」を伝えるためにヨーロッパへ、アジアへ飛び立つミッショネール達が生まれてくるということを。
「神様ほんとうにありがとう!」と叫ばずにはいなれないが今の私の気持ち。これからも貧富の差が大きく、部族主義(トライバリズム)からなかなか抜け出せないアフリカ諸国の人々に「どんな人のそばにも、そうすべての人のそばに、いつもいてくださる神様に気づくこと」を伝えていきたい。

おおた いとこ

 

2015年6月7日 キリストの聖体(マルコ14・12-16、22-26)

これはわたしの体である。これはわたしの血である。

「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」(マルコ14.26)

明日は、教会学校の子どもたちが初聖体を受けます。そのことを思うと、うきうきする私がいます。 毎週「初聖体」の勉強を頑張ってきた子どもたちですが、明日ミサ後どのような第一声が飛び出すでしょうか。 勉強した内容が飛び出すことはまずないでしょう。それでよいと思うのです。
「いただけた!」それで十分。何よりの賛美の言葉ではないでしょうか。

先週の日曜日、初聖体に先立ち子どもたちは、「初ゆるしの秘跡」を受けました。不安な顔で順番を待っていた子どもたちが、ゆるしの秘跡を終えて出てくると、みんな笑顔で「できた!」「スッキリした!」と報告してくれました。「あれ?償いのお祈りは?」「あ!忘れてた!」こんな調子です。しかし、この情景を神さまはどれほど大喜びでご覧になっていたでしょうか。

イエスと共に過越しの食卓に着いている弟子たちは、すべてを理解することが出来ませんでした。私たちもまだ無理解な状態かもしれません。聖体拝領の時間になると無意識に列に並んでいるということもあるでしょう。しかし、日々の食事はそのようなものではないでしょうか。一つひとつの食材の栄養素を事細かに理解し、エネルギーに変化している状態を感じながら食事をすることは、ほとんどありません。さらに作り手の思いや、料理を本当に味わっているとかと問われると、疑問に思うこともあります。しかし、特別な日、特別な食事をいただく時の感覚は異なるでしょう。また、当たり前の状況外に置かれたとき「日々の恵み」に気付くこともあります。

「キリストの聖体」にあたり、イエスの言葉をじっくりと味わいたいと思います。私の悩み、思い煩い、不安や恐れを全部差し出した時、イエスの言葉はどのように響いてくるのでしょうか。
「今週もいただけた!」という素朴な喜びに気付ける恵みを願います。そしてこの6月、私たちがイエスのみ心に触れる喜びの月となりますように

はしもとあきこ

2015年5月31日 三位一体の主日(マタイ28・16-20)

父と子と聖霊の名による洗礼

わたしはまだ若かった。と言っても、その頃はそれなりに大人として社会は見てくれる時代でしたが、わたしは20代初めに洗礼を受けました。その洗礼が、「父と子と聖霊の名による」ものだなどと、難しく考えたこともありませんでした。大聖堂入り口の洗礼盤と白いベール、それに洗礼のローソクの火が傾かないようにまっすぐ持つことに神経を払ったことが思い出されます。

その後、修道者という恵まれた生活の中で長い時間をかけて聖書を読み、黙想をし、神学という学問をしていきながら、徐々に「父」と「子」と「聖霊」が身近なものになっていきました。この三位一体の神がバラバラではなく一つの神であることや、自分が神の子とされ、神に愛されていることが実感として分かるのは、この愛の中に沈められる洗礼の恵みをいただいているからだと、もっと分かりました。

価値観の多様化が進んだ今日、教会も小さな声で洗礼が全てではないと言います。けれども、イエスは昇天の前に弟子たちを全世界に遣わし、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ることを命じられました。最も、水をかけることが全てではありません。わたしたちの内側から永遠のいのちが湧きだす水に通じる洗礼の恵みが、多くの人にあるようにと願っています。

しながわ よしこ

2015年月24日 聖霊降臨の主日 ヨハネ15・26-27、16・12-15

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

今日の第一朗読では聖霊が降る様子を、そして第二朗読では霊の実りを、福音朗読ではその霊とは何であるかを語っている。 聖霊の存在は若いころは理解しにくかった。父と子は何となく理解できても霊の存在とは何ぞや、という疑問が常にあった。しかし年を重ねていくと、積み重ねてきた体験から聖霊の存在を教えてもらった気がする。聖書に書かれている言葉を、イエスの語る言葉を、人が語る福音を、悟らせていただく力は聖霊の働きによるものだと信じる。そして、自分の口から出る福音も聖霊の力が働かなければ語れないということも悟る。聖霊が働くことによって、今までの世界はあっというまに変わる。世界を変える力をもっているのが聖霊だ、と言っても過言ではないと思う。御父と御子、そして聖霊が一体となって人を導き、世界を神の国へと変えていく。これを私は信じ続けたい。そこに働かれる神の力を信じ続けたい。

なかだ くみこ

聖霊の続唱

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、 わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。 やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。 苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。 恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、 だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。 固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。 あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、 終わりなく喜ぶことができますように。 アーメン。

 

2015年5月17日 主の昇天(マルコ16 15‐20)

「主イエスは天に上げられ、神の右の座に着かれた」

その時、イエスは11人の弟子をに現れて、言われた。「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と この様子は、どんなに勇気が与えられる光景か。私は、主イエスのこの慈愛に満ちたお姿が大好きです。既にご復活後40日間もこの地上に留まり、1人1人の必要に応じて、必要な時に現れて下さったイエス様に弟子の使徒たちは、赦され、勇気付けられ、新しい出発に第1歩を踏み出した事か。 すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 私は霊操の[23] 原理と基礎にこの呼応を感じたのです。 “人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためであり、こうすることによって、自分の霊魂を救うためである” 更に創立者み摂理のマリアの愛の心使いは、み摂理の摂理としたご自分の使命を私たちに遺して下さったと思い、私の心は燃えるのです。“人間が造られた目的を達成する上で、人間に助けとなる為である”と。 使徒たちの喜びが目に見えるような気がして、私も使徒行録にあるように、“イエスは彼らが見ているうちに、天に上げられて”(使徒行録1-9)いかれるイエス様を弟子たちと一緒に仰ぎ見ている自分に気付くのです。そしてすぐに“ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げているのか。 あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのを見たのと同じ有様で、またお出でになる。”(使徒行録 1-11)との言葉が私の胸に響くのです。そしてガリラヤに帰っていく弟子のように、喜び一杯で主が共にいて下さるのを信じる恵にみたされるのです。 ちなみに私が修練院に入って間もなく、主のご昇天の祝日の休憩時間に修練長様が、「皆さんはどのイエズス様が一番好きですか?」と尋ねられたのです。私の番になった時、私は嬉しさ一杯で「ご昇天のイエズス様です。」とお答えすると、修練長様はちょっと驚かれて「マ・スール何故ですか?」と尋ねられ、益々嬉しくなった私が「『御父の御旨を成し終えリ』と使命を果たされて、イエス様は御父のもとに帰られたのですから、きっと御父も御子もおおきな喜びだったと思うのです。それを思う時、私はこの上ないしあわせで満たされます。」と答え、修練長様はちょっと笑って「そうですか」とおっしゃったのが私の心に懐かしく思い出されます。わたしにとってそれは今も勇気の源泉になっているのです。 “主はのぼられた、よろこびの叫びのうちに” 詩篇47答唱

m・Rejina下條裕紀媛

 

2015年5月10日 復活節第六主日(ヨハネ15章9-17節)

「私の愛にとどまりなさい」ヨハネ15:9

さて、来週の福音箇所は?聖書を開くとたちまち、愛が降り注がれているのを感じました。 先週、あるテレビ番組のライブ中継で、高野山からサックスの演奏が届けられました。美空ひばりさんの「愛燦々」のソロ演奏が、静かに心に響いてきたのが思い起こされます。言葉では言い表せないものですが、まさに今週の福音は神さまからの愛燦々の箇所ではないでしょうか。 図らずも、この箇所を開いた日は私の誕生日でもあり、神さまから届いたプレゼントのように味わいました。 「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 御父はわたしをこの世に喜んで存在させてくださいました。その喜びをわたしは存分に味わっているでしょうか?気づくと自分のダメな部分、情けない部分ばかりにくよくよして、いのちを小さく、狭くしていないでしょうか? わたしの存在の喜びとは何でしょうか。静かに御父に問いかけてみました。 「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと・・・またわたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと」 御父の手の優しさ、温かさ、降り注ぐ愛のうちに、私たちがあることをもっと気づかせてください。御父が喜んでくださるように、私たちも自分の存在を喜ぶことができますように。そして出会う方々と共にあなたを讃えることができますように。復活節の喜びのうちに、願います。

はしもとあきこ

 

2015年5月3日 復活節第主日五B年(ヨハネ15章1-8節)

「私につながっていなさい」ヨハネ15:4

小学生の頃か、近所の某友達の家では、初夏の頃から、縁側のひさしからぶどう棚でできた屋根が張り出して、庭にもう1つ居間が造られたかのようでした。その下で遊ぶ時、木漏れ日で友達の顔がマスカット色に輝いていたのを思い出します。堅くて小さい実が次第に大きくなっていき、秋風に乗っていい香りがして来た頃、通りかかるとその屋根はなくなっていて、しおれた葉や茎が庭のチリ取りに丸められていました。8畳程の広さを覆う屋根だった割には、「これだけ?」という程あっけない量でした。その家で生まれ育ったなら、木の根元を見る機会もあったでしょうが、残念ながら記憶にありません。ぶどうの木って、胡桃や柿のように、実をつけている時もいない時も1年を通して目に見える木ではなかったのでしょうか?それとも? 私は正真正銘のぶどうの木、と自分を語るイエス。稲や麦の茎は藁として有用ですが、ぶどうの枝は実際ゴミ箱行きになってしまう。イエスに繋がっている故にだけ価値ある存在! 今まで私は、「ぶどうの実も私」と勘違いしていました。そうではなく、私は枝に過ぎず、実りもイエスであり、神の望み、誰かのためでしょう。 緑の季節が来ました。イエスにつながっている確かさと、つながっていたい心とが新たにされて、光も、水もイエスから来るのですから、その根本が目には見えなくても、「今がその時ですね」と対話を1歩、深めていきたいです。

すえ かおる

 

2015年4月年26日 復活節第四主日B年(ヨハネ10章11-18節)

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」

「あなたのイエス様のイメージは、どんなイエス様?」と聞かれたら、どう答えますか? 私のイエスのイメージは、「良い羊飼い」です。洗礼を受ける前(24年前)から、今に至るまで、詩編23番は私の一番好きな詩編です。神への信頼の詩編。 「主はわれらの牧者、私は乏しいことがない。神は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴われる。神は私を生き返らせ、いつくしみによって正しい道に導かれる…。」 イエスは、私たちを導いて、御父のもとへ連れ帰ってくださるかた。 迷った羊を探して、見つかったら大喜びで肩に担いで連れ帰ってくださる。 羊が泥だらけになっていても、迷わず抱き上げて喜んでくれる。 大丈夫。どんなに汚れ、みじめな状態になっていても、彼のもとに帰って行っていい。 彼はいつでも両腕を広げて迎えてくれるから。 「イエス、すべての人の羊飼い。あなたは迷った者たちを探しにおいでになりました。私たちを憐れんでください。私たちを戻らせてください。私たちをあなたの元へ戻らせてください。私たちを憐れんでください。」(フランスの聖歌より) 普通の羊飼いは、当然毛を刈ったり、羊を売ったり、屠って食べたりします。でもイエスがご自分を称される「良い羊飼い」の使命は、「羊の群れを神である御父のもとに導くこと。」羊たちを救うことに尽きます。(それこそが神の喜び、栄光。)そのために、自ら進んで命を捨てる。どれ程の愛でしょうか。 「友のために命を捨てるほど大きな愛は無い。」と言い、私たちのためにご自分の命を捨ててくださったイエス。あなたを見つめながら、少しずつでも、あなたに似ていくことができますように。

きむら きょうこ

 

2015年4月19日  復活節第3主日 (ルカ.24.35-48)

「あなたがたはこれらのことの証人となる」

沈む心でエルサレムを去りエマオに向かった二人の弟子たちが、復活された主と出会い、燃える心でエルサレムに戻り、11人とその仲間に合流して、道で起こったことやパン裂きのときにイエスだと分かった次第を仲間に話している。 溢れる喜びと驚きに包まれて弟子たちがひとつに集められている。まさにそのとき、彼らの真ん中にイエスご自身が顕われた。「あなたがたに平和があるように」そして、イエスは「わたしだ、まことにわたしだ。わたしは確かに死んだが復活して生きている」と分からせようとするかのように、手足をお見せになったり、魚を召し上がったりして、さらには聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いてくださった。「メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」こうして、弟子たちは、あのナザレのイエスは聖書に書かれているメシアであり、今や神の救いの計画が実現したことを悟り、最後に全世界へ救いを宣教する使命を受けた。 「あなたがたはこれらのことの証人となる」証人とは何だろうか。わたしはあるとき、姉妹に「あなたはわたしの証人ではないのですか」と言ったことがある。今、あらためて自らの発言を祈りの中で思い起こし振り返ることとなった。正確にはわたしの証人ではない。神さまが始めて下さった救いの業と、神さまの招きに応えたいと望み歩むプロセスの証人といえるのかもしれない。証人は「これらのこと」を生きて、映し出す鏡のような存在だ。究極的に私たちは、神さま以外の証人をもたない。全ては神さまがご覧になり、記憶されるだろう。どれほど闇が深くても、失敗や失望があっても、「聖なる3日間」の過ぎ越しの神秘を映し出す鏡となって、希望の証人として、新しい交わりの証人として生きる招きが今日も歩みを導く。

みうら ふみ

 

2015年4月12日  復活節第2主日 (ヨハネ.20.19-31)

 

「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20.29)

ヨハネ福音書が、本来はここで終わっていることを考えると「見ないで信じる人は幸い。」とは、終末の完成を信じて旅をしている今の私たちへの、力強い復活の主からの宣言である。 十字架は誰にとっても、日常の中で見える現実なので、信じるのは容易いが、復活は、その背後にある見えない現実なので、聖霊の光によって照らされた信仰の目でしか見ることが出来ないから、信じることが難しいとつくづく思う。 トマスは、他の弟子たちがためらっていた時、「私たちも行って、主と共に死のう」と仲間に呼びかけた程、イエスを愛する弟子である。(ヨハネ11.16) 愛する主を失ったトマスは、十字架止まりの信仰の暗闇に耐え切れず、仲間からも離れ孤独のうちにあった。そのようなトマスに、復活の主は、限りない優しさをもって、特別な出会いの仕方で現れてくださった。トマスは、私、私たちでもある。主は、あるがままのトマスを受け入れて、傷跡を残したまま、輝くご自分に引き寄せてくださる。トマスは、引き寄せられるままに、自分自身という十字架を主に差し出し、愛の息吹を浴びて新しい人に創造され、「私の主、私の神よ」と、信仰を宣言する。 復活の主は、トマスを通して、今の私、私たちに仰せになる。 「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」

でぐち ようこ

 

2015年4月5日 復活の主日(マルコ16・1-7 ヨハネ20・1-9)

 

「目をあげて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。 石は非常に大きかったのである。」

ご復活おめでとうございます。

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2015年3月29日 受難の主日(マルコ・11・1-10)

 

「まだだれも乗ったことのない子ろば」(マルコ11:2)

エルサレムに人々の歓呼を受けつつ入城するという晴れ舞台においてイエスが選んだのは、まだ誰も乗せた経験のない子供のろばであった。イエスが、力や栄光のシンボルであった馬でなく、ろばを選んだというのは分かる。しかし、なぜ人を乗せた経験が豊富な大人のろばではなかったのだろう。 この子ろばが自分の背中に乗せた初めての人間は、イエスだった。そして、背中に乗ったイエスに手綱を操られて、イエスが進む道をイエスの導くままに一緒に歩いた。人々は子ろばの方を向いて歓呼の叫びを浴びせたが、それはろばに向けられたものではなく、ろばと共にいるイエスに向けられたものだった。イエスが背中から降りた後の子ろばの運命は聖書に書かれていないが、イエスの復活の後で神の子を乗せたろばとしてありがたがられたわけでもなく、通常ろばが使役される仕事に使役されて、普通に死を迎えただろう。 誰も乗せたことがないとは、イエス以外のもの、世間の名誉や権力や評判や金やこの世の力ある者を自分の背中に乗せてはならない、それらを主人としてはならないということだ。私たちにはイエス以外の主はいない。この子ろばのように、私たちは経験浅く、弱く、小さく、イエスを背中に乗せるにふさわしくないが、にもかかわらず、イエスによって選ばれ、イエスに導かれて、イエスが行く道を共に歩く。賞賛は主のものであると弁えながら。聖週間にあたって、この子ろばのように生きる恵みを祈り求めたい。

みよし ちはる

 

2015年3月22日 四旬節第五主日(ヨハネ12・20-33)

今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。

「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言おうか。 しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

(ヨハネ福音書12章)

共観福音書のゲッセマネの祈りに対応して、ヨハネ福音書は、迫り来る大きな闇の勢力を前にし たイエスの心の内を、「時」をめぐる葛藤として語ります。 人々がエルサレムに来ているイエスを訪ねてくると、イエスは自分の「時」が来たことを悟り、 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」 と答えたと言います。もちろん麦に喩えられるこのメッセージはその場にいる人たちに向けられ たものでしょうが、イエスにとっては、自分が「今」生きなければならないことの意味をはっき りさせて、そのために腹をくくり、そこから力を汲み取るものであったのではないかと、私は思 っています。しかしイエスは、此の期に及んで平静ではいられないのです。心騒ぐのです。父な る神に「この時から救ってください」と言いたい思いに駆られます。 イエスのこの「時」は、救済的な意味においても、歴史的意味においても、決定的な重みを持つ ものであり、それゆえにユニークなものではありますが、私たちもある意味で常に、「今の時」 をめぐって葛藤しながら生きているようなところがあります。もちろんこれほどの悲壮さを伴う ことは、幸いにそれほど多くはないのですが、それでも、私などは毎日、これをやらなければと いうものがあっても、そこから逃避したい思いと、いや逃れないで落ち着いてそれに取り組もう という思いの間で葛藤することは多々あります。あるいは、あれやこれやの中で、何を選び、そ れをどう表現したらよいのかという葛藤も、大なり小なり、しょっちゅうしています。 このように「今の時」をどう生きるのか、絶えざる識別が私たちに求められているわけです。 しかしこの葛藤をイエスも生きたことに、私は思いを馳せます。私たちが葛藤している、その内 側で、イエスが私たちと共に「父よ、私をこの時から救ってくださいと言おうか、しかし私はま さにこの時のために来た」と言って、力を汲むことのできる泉まで私の心を導いてくれることを 信じて、その葛藤を生きたいと思うのです。 今日、私たちの修道会で一人の会員が初誓願を宣立します。新しい会員を迎えて、私たちは修道 会としても、こうした葛藤と識別を積み重ねながら、一瞬一瞬をイエスの思いに重ねて奉献生活 を生きることができるようにと、恵みを願っています。

もり ひろこ

 

2015年3月15日 四旬節第四主日(ヨハネ3.14-21)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで 永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3.16) 「神さんはあきらめてへん。」 先日、この個所についてお話下さった神父さまの言葉が、私の心で強く響いています。関西弁のインパクトもあったのですが、「あきらめてへん」は「今も」につながっている、その今を実感したからです。 3月11日、東日本大震災から4年を迎えました。震災によって私たち教会は広がりを持ち、共に生きるという経験をしました。信者である、ないに関わらず、いのちの大切さを思い、苦しみ悲しみに連帯することを“あきらめない”方たちが日本、世界各国から集まり、共同体となり被災者の方と共に歩みました。それは決して簡単なことではなかったと思いますが、その出来事は私にとっての希望でした。そして今もなお、“あきらめない”思いが続いています。 「真理を行う者は光の方に来る。」とイエスは語ります。あきらめない神さんは今日も私たちを光の方へと導かれます。 どうか、注意深く真理を見出し行うことができますように。

はしもと あきこ

 

2015年3月8日 四旬節第3主日 B年

わたしの父の家を商売の家にしてはならない(ヨハネ2.13~25)

この福音箇所を手にして「えっ」と一瞬目を疑う私である。何故なら昨年11月9日の福音分かち合いと同じ個所である。ひと呼吸し、気を取り戻し、主が私に何かを問いかけているのではないかと摂理的なものを受けた次第である。 イエスは言われた。 「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる。」イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。(ヨハネ2.19.21)イエスは縄で鞭をつくり「わたしの家を商いの家にするな。」という混り気のない、神の憤りに触れ、愛ゆえに行動するイエスに対して、主よ私をあわれんで下さいとひたすら懇願するしかない自分であったことを記憶する。 今日も主イエスは私たち一人一人全人類のために、蔑み、塵、芥のはずかしめの道、十字架の道を選ばれ、そして私、私たちすべての人々のためによみがえられたのである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのであると書かれている。(2.25)ここでも、主よ私を清くすることがおできになりますと懇願するのみである。 今日も世界中の出来事、日本の中での出来事、悲しみ、不信感、無関心の中で苦しんでいる私たちの隣人、兄弟の中に共におられる主イエスに信頼して、先が見えなくとも、頭を前にむけて主イエスの中に希望と信頼の歩みの道を生き続けたいものである。

のばやしゆいこ

 

2015年3月1日 四旬節第二主日(マルコ9:2-10)/p>

“これはわたしの愛する子 これに聞け”(マルコ9.7)

四旬節第二主日に読まれる福音の箇所にこれからイエスが歩もうとされる受難と十字架上の死、その後に起こる主の復活が「イエスの変容」という姿であらわされています。 ルカは「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(9・29)と記述しています。この情景もさることながら、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と響く声に私は心が奪われました。この声はイエスが洗礼をお受けになった時に天が開け「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と同じ響きを持っています。洗礼の時に「神の愛する子」として宣教活動を始めるときに聞えた声であり、今日の箇所は「神の愛する子」として受難の道を歩み始めようとされる時に聞えた声です。 ルカは「愛する子」という言葉を使わないで「これはわたしの子、選ばれた者」と言っています。神が選ばれた者とはどんな方なのでしょう。 イザヤ42・1に「見よ、・・・わたしが選んだ者を。彼の上にわたしの霊は置かれ・・・彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かのものとする。」この中に私は深い神の憐れみの心を見出します。そしてイエスこそ「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消さない」方であり、それ故、神はイエスを「選ばれた者」と呼ばれたのでしょう。 この姿勢は私が人や物事と関わる時の神からの問いかけであり、識別の基準にしたい心です。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消さない」という姿勢は弱い人、小さな者に心を向けるようにとおっしゃっている教皇フランシスコのキリスト者への勧告に通じるものです。『神の優しさ』をこのように生きるイエスの中に見出し、そして「聞け」と言う雲の中からの声は『神の憐れみそのもの』である『イエス』に「聞き従いなさい」と言っているように思えます。

のもと よしこ

 

2015年2月22日 四旬節第一主日(マルコ1.12-15)

「霊はイエスを荒れ野に送り出し・・・・サタンから誘惑を受けられた」

私は、このみことばを読むとき、出エジプト記のイスラエルの民が紅海を渡って40年間荒れ野をさまよった箇所を思い出します。 エジプト時代の奴隷状態から解放され、自由の身となったイスラエルの民にとって苦しくても荒れ野は神との出会いの場でした。 この荒れ野時代は、唯一の神ご自身がご自分を民に示され、関わられた恵みの時代でした。 しかし民は、何度も誘惑に負けて神から離れる体験をしますが、神は、悔い改める民にその都度、慈しみを示して下さいました。 イエスは、洗礼を受けた時に御父から降った同じ霊に導かれて、荒れ野で40日間を過ごします。「これはわたしの愛する子」と御父の子としての承認を受けたイエスは、荒れ野でサタンの誘惑を受けられ、それに打ち勝ちました。イエスはこの時、私たち人間が生涯において遭遇する悪の力に打ち勝って、既に、私たちの弱さに連帯してくださいました。同じイエスは、巧妙な悪の力に対する勝利者として、今も私たちと共にいてくださいます。 私は、現代の私たちの日常は荒れ野にたとえられると思います。 「善」を装って見えるもの、語りかけて来る事柄や迫って来るものに囲まれているのを感じます。 イエスは、荒れ野の中でも働かれています。私が誘惑や風潮に晒される時、善に向かうものか、悪の力が引くものか、イエスに聴くことの大切さを今、特に強く感じています。 試行錯誤しながらも逃げることなく、既に悪の力に打ち勝ち、いつも共にいてくださるイエス・キリストに聴き従いつつ、自分の道を一緒に歩いていきましょう!

やすま ふさこ

 

2015年2月15日 年間第六主日(マルコ1.40-45)

「人びとに証明しなさい」(マルコ1.44)

だれにも、何も、話さないように。 けれども、その人は、人びとに、この出来事を告げ、言い広めた。だれにも話してはならないとイエスが言ったのに、彼は、その出来事を言い広めた。そう、今で言う「拡散」だ。癒されて元気になった、この重い皮膚病だった人は、心の底から嬉しかったのか。それとも、ただ、大ニュースを自慢したかっただけなのか。それにしてもなぜ、イエスは、だれにも話さないようにと言ったのか。何か不穏な気配でもあったのだろうか。 祭司に自分のからだを見せて、清めのものを献げるという行為は、人が人として神さまの前にまっすぐ立つことができるということを意味している。そしてまた、人びとに証明しなさいということは、人びとの前にもまっすぐ立って、「わたしは人間だ」と証しせよ、ということだ。イエスはきっと、清くされた人に、それをして欲しかったんだ。自分を証しして欲しかったんだ。 「おまえは人間だ。人間として、堂々と人前に出よ。そして、人びとと共に歩め」と。 人びとの真ん中に入って、神の子として、みんなの幸せを産み出して行く。イエスが願っていたのは、まちがいなくそこだろう。自分の名声を上げたり、有名になったりすることじゃない。イエスは人の救いを願い求めている。 重い皮膚病というのは象徴的だ。そのからだはどこにも置きどころがない。揺れて、揺られていて、浮遊している。けれども、もう、皮膚病は終わったんだ・・・

はらけいこ

 

2015年2月8日  年間第五主日(マルコ1・29-39)

(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコ1・29-31)   シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた。人々が早速彼女のことをイエスに伝えるほどだから、かなりの高熱だったかもしれない。彼女の想いを祈りのうちに想像してみたい。 私は50歳代の女です。熱病にかかってしまったようで、寝込んでいました。数日間熱が下がらなくて、きつかったです。水を飲んで、おかゆを数口食べるのがやっとで…。やつれましたよ。熱にうなされてもう何も考えられなくなって、荒い呼吸をしながらうつらうつらしていたところに、あの方が来られました。 あの方は、わたしの家族の者に連れられて、わたしの寝床のある部屋に入っていらっしゃいました。そして、寝床のそばに身をかがめ、私の名を呼んで優しく見つめ微笑まれました。まるで、ずっと前から私のことを知っておられたような表情で、懐かしそうに…。父親が愛娘と再会して喜ぶような雰囲気で…。イエス様よりも私の方が年上なのに、そんなふうに感じるなんて不思議ですね。 そして、私の手を取って起こしてくださったのです。 その瞬間、一気に熱が下がりました。それだけではなくて、身体には力がみなぎり、心も喜びにあふれて、すっかり元気になってしまったんです。普通に治ったのなら、熱が下がった後もだるかったり、フラフラするはずなのに! 奇跡です。まるで、新しく創造されたよう。この方こそ救い主だと思いました。 すっかり元気になったので、すぐに活動開始。得意料理を作ってみなさんをおもてなししました。漁師の家ですから、もちろんメインはお魚で。皆で楽しく美味しく食事しました。 私の病気、回復、心からのおもてなしを通して、神がその栄光をあらわしてくださったことに感謝しています。

きむら きょうこ

 

2015年2月1日  年間第4主日 マルコ福音書1章21-28

「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(マルコ1:22)

1か月のインド実習を終えた。パスポートもビザも持っているのに、インド入国審査ではどぎまぎする自分がいた。日本の生活様式と全く異なる生活に飛び込むと、いかに自分が弱く貧しい者であるかを突き付けられる。料理一つとっても、調理用具が異なるだけでまともに野菜を切ることさえ出来ず、惨めな思いになったこともある。インドでの出来事をイエスと共に歩みながら、「信頼して恐れない」恵みをいただいて帰ってきた。 イエスとの出会いは、時として痛みを伴う。イエスの絶対的権威の前に、惨めな自分の姿を見つけるからだ。そしてちっぽけな自分の権威を振りかざし、大きく見せようとする。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。」私もこれまで同じように叫んできた。しかし、イエスの愛に抱きとめられていることを知っていくとき、その痛みは既に癒されていることに気づく。そして福音の喜びに与る者としていただくのである。 けいれんが起こる、大声をあげるそれは確かに痛い。しかし十字架上のイエスはそのすべての痛みを担って下さった。律法学者のようにではなく、命をかけた権威者として。わたしたちの痛み一つひとつは、救いの道への入国のようなものかもしれない。イエスという絶対的パスポートを持っていることを信じて乗り越えていきたい。しかも神の国はいつも開かれているのだから。

はしもとあきこ

 

2015年1月25日  年間第3主日 マルコ福音書1章14-20

「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。」(マルコ1:19~20) イエスはヤコブとヨハネをご覧になると、すぐに彼らを呼ばれた。その直前にも、イエスはシモンとアンデレを「ご覧にな」り「わたしについて来なさい」と呼ばれている。 まず、イエスが私に眼差しを注がれ、それから呼びかけがある。これは、奉献生活者としての私の召命の原点でもある。これだけのものを捨てて私は従ったぞ!という自分の応答ばかりを、ついつい私は思い起こしがちだが、本当に振り返り、しっかりと味わうべきは、イエスが私に眼差しを注ぎ、呼びかけられたという点なのだ。それなくして、私の修道者としての召命はない。 教皇フランシスコが「イエスが、私に目を注いでくださった瞬間こそ、喜びです」と言われたように、そこに私という奉献生活に呼ばれた者の喜びの原点がある。不安や心配があっても、最終的には呼ばれたことへの喜びを胸に私は応答したということを忘れまい。 そして、この喜びを土台に、いつも自分からの「出エジプト」を繰り返していきたい。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人が、網を捨てる、父親を雇い人と共に船の中に残すという「出エジプト」をして、イエスに従ったように。それが、この私が呼ばれた道で生きていくということなのだから。

みよし ちはる

 

2015年1月18日  年間第2主日 ヨハネ福音書1章35-42

「わたしたちはメシアに出会った」(ヨハネ1.41)

30数年前のはなし。私の友人がまだ若かくて貧しかった頃、夫婦は幼子2人を連れて一緒に海に行った。「4人で手をつないで、寄せてくる波をポーン、ポーンと越えて遊んでいたのよ。越えても、越えても波は寄せてくる。その時、私は分かったの。こうして皆で手を取り合っていれば、寄せてくる波を一緒に越えていけることを。」その友人の目の輝きと喜びを私は今でも忘れる事が出来ない。 私はある時とても辛い体験をした。心の底が凍て付く様な冷たさを味わっていた。冷たさ、悲しさが数日続いたある日、原因にしっかり向き会おうと決めた。一番冷たい所に心を向けた時、薄氷の下に悲しみ苦しんでいるイエスの顔が見えた。一瞬の出来事だった。「私が悲しんでいた時、あなたは私の一番深く冷たいところで一緒に苦しみ悲しんでいてくれたのですね。」しかし、何時しかそのことさえも忘れかけていた。この最近、私の心の奥深くにいらっしゃるイエスが再びその存在感を持ち始めた。 その方に、日々問いつつ生きる習慣が日常になり始めている。 「私たちはメシアに出会った。」と弟子たちは言った。復活の朝、マグダラのマリアは「私は主にお会いしました。」と言った。 私たちも日常の小さな出来事の中に出会っているはずです。心と目と耳を澄ませて見てください。主は私のまっただなかにいらっしゃいます。

ふるみちしげこ

 

2015年1月11日  主の洗礼 マルコ福音書1章7-11

「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」(マルコ1.11)

この声を御父から聞く時のイエスの心はどんなでしょうか。「み心のままに」と十字架を目前にしても祈られたくらいですから、イエスという名前の裏地に刻印されている、もう1つの名前のように、何度も心に響いていたのではないでしょうか。 私は成人洗礼です。聖堂できれいな水をかけていただいたことを憶えています。けれども今、イエスの洗礼を思い浮かべると、かなり違っています。「あ、イエスだ」とわからない、1人の人として同じ列に並んで、沼地の泥水に飛び込むイメージです。私はあまりの水の汚さにがっかりして足をすべらせて沈んでしまいます。慌ててしまって、飲みたくもないその泥水を飲み、鼻も頭も喉も痛み苦しくて、溺れる恐怖でもがきます。泥水が波打った瞬間、頭が水から出て、息を吸うことができ、岸にやっとの思いで上がりました。 「ああ!やれやれ、助かった!!」 私を溺れさせずに済むなら、何度でも、汚い水に飛び込む覚悟をしておられるのです。 「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」(イザヤ53:11)  いくら心をこめて、比べられない代償を払っても、ありがとうの一言もなしのことが殆ど。相手が助かった、ただそれだけが報酬で、次に頼まれることなどなくてもほほ笑んで、もう1人の私のもとへ出発する。そんなイエスが今日、唯今、大勢の人と一緒に列に並んでいます。感情のレベルで渦の中に溺れていても、「助けて!」と頼めますように、聖霊助けて下さい。  そして私も、呼ばれる名前を心に響かせ、その名になっていくよう、2015年を大切に、一歩、一歩、歩ませて下さい。 御父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

すえ かおる

 

2015年1月4日  主の公現 マタイ福音書2章1-12

「…東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。 彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げた。」 (マタイ2・9-11)

ご公現と聞いて思い出すのは、あかねさんの手紙。2009年、彼女が自動車の事故で天に召される約1か月前に書いたもの。 「今日はご公現の祝日ですね。皆さんは主にどんなプレゼントをささげましたか? 幼子イエスに贈った私からのプレゼントは私自身です。もろくて貧しいけれど、イエスが愛しているチャドという大地で、喜びとともに生きているこの私自身を捧げました。(中略) 今年も皆さんにとって、美しく、喜びの年でありますように。 あなたがたを心から抱擁します。」 そうねえ、私はイエスに何をささげようかな。 あ、そういえば、今年ナイロビ聞いたでこういう歌詞の歌が心に響いたんだった。 「どんなギフトが私の主を幸せにするだろう? どんなギフトが主に喜ばれるだろう? 家? 車? 洋服? 彼は受け取らないでしょう。 イエスは愛される。愛する心、忍耐する心、謙遜な心、思いやりの(ケアする)心を。」 毎日、ほんの少しずつでも、こういう心と行動を彼に捧げられるといいな。 そして毎日の生活の中でイエスを見つけて、喜びにあふれていたい。 皆さんは主にどんなプレゼントを捧げましたか? 私たちの救い主、主であり友であるイエスといつも共にあって、喜びに満ちた一年となりますように。 祈りを込めて。

きむら きょうこ

 

2014年12月28日  聖家族の祝日 ルカ福音書2章22-40

「わたしはこの目であなたの救いを見た。」(ルカ2:30)

ルカ福音書の最初に登場する人々は、待ち望む人たちです。ザカリア、エリザベト、マリア、ヨセフ、シメオン、そしてアンナ。シメオンは、神の約束を信じて待ち望み、霊に導かれながら期待をもって生きる信仰深い人でした。メシアに会うまでは決して死なないとお告げを受けた者として、イスラエルが慰められるのを長いこと待ち望んでいました。ヨセフとマリアが幼子イエスを連れてきたとき、ついにシメオンは喜びの叫びをあげました。「わたしはこの目であなたの救いを見た!」幼子を胸に抱いて神を賛美するシメオンの顔は、「異邦人を照らす啓示の光」に照らし返されてどれほど輝いていたことでしょうか。この光は、世界の隅々に、今ここに、ひとりひとりに行き渡ろうとしています。皆さんは、今年どんな救いを目撃しましたか?シメオンと共に心震わせながら、思い起こされてくる出来事は何でしょうか? 私は、今年の復活祭に父が洗礼を受けたことを、今、思い起こします。私の家族において、最初に神の約束を信じたのは母であり、この恵みが家族にも及ぶようにと待ち望み続けたのも母でした。ときに大きな困難があっても、忍耐が必要であっても、神さまが先に待っていてくださるゆえに、信仰の民の群れのゆえに、希望することができます。イエスと母マリアと父ヨセフも、家族の歴史というのは喜びや労苦に満ちていて、それだからこそ尊い、ということに、おそらく共感してくださるでしょう。待ち望む民の交わり、家族の交わりの中で、今日も幼子がすくすく育ちますように。

みうら ふみ

 

2014年12月21日  待降節第4主日 ルカ福音書1章26-38

「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)

「神にできないことは何一つない。」ではなぜ、この世にこれほど苦しみや悲しみが溢れているのか。不正や悪がはびこるのか。必死で祈ったのに、大切な人が病で亡くなってしまうのか。 この世が自分の思い描く理想と異なるとき、自分の思い通りに物事が進まないとき、この私の願いが叶わない時、私は神の全能性を疑い、つぶやきます。その時私は、すべてが私の言葉どおりになることがよいことだとしています。 しかし、今日の福音が私たちに示すのは、「神にできないことは何一つない」という天使ガブリエルの言葉は、ナザレのおとめマリアの、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という応答は一対になっている、ということです。 「神にできないことは何一つない」という真実は、人間の側が、「神のお言葉通りに」すべてがなることをよしとして、自らの内にそれを受け容れてこそ、この世で成就するのだ、とルカ福音書は、私たちに語っているように思われます。 「フィアット」と神に対して言うことは、マリアのように、自分の子どもが十字架上で死んでいく姿を目撃するといった類の、大きな苦しみにつながる可能性を秘めています。それでも、その後に必ず復活があり、真の喜び、解放、幸せがある。そのことを信じて、「フィアット」と言いながら、全能の神を信頼して一日一日を生きていくことができますように。

みよし ちはる

 

2014年12月14日  待降節第3主日 ヨハネ福音書1章6-8、19-28

「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」  (ヨハネ1/8)

ヨハネの使命が、「光について証しをするため」と3度も繰り返されている。「光」とは、新しい契約の光として来られるイエスのことであるのは、明らか。御父から遣わされたイエスご自身も、ご自分のことを、「私は世の光である」と言われている。一方、光ではない、メシアではない、違う、そうではない、資格もない、という否定の言葉も繰り返されている。この2つの言葉が私の心に響く。 同時に、光の対極にある「闇」の姿も浮かび上がってくる。「証しをするため」という言葉は、命を懸ける使命、殉教の姿で迫ってくる。事実、ヨハネは、十字架から栄光への真のメシア、イエスの道を、殉教によって証しした。 主よ、あなたの御顔の光で私たちを照らしてください。今日私に出会う人々の中にその輝きを宿すことができますように。 それは、私たちの言葉ではなく、命の証しによってこそ実現することを深く悟らせてください。わたしが光になりたい誘惑に陥らないよう、どうぞ、強く照らしてください。  母の胎内で、あなたの光を見て喜び踊ったヨハネの様な、無垢なる存在、花婿の輝きを見て、喜び、去って行ったヨハネの様な偽りのない愛を証しする真の証し人となることが出来ますように。

でぐち ようこ

 

2014年12月7日 待降節第二主日 マルコによる福音1・1-8

   「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マルコ1/3)

  身体的諸事情からまっすぐ歩くことがずっと難しかった私です。でこぼこ道がまっすぐになることは正に福音です。そして曲がりくねった道が真っ直ぐになれば、強度の近視と緑内障にさいなまれている私にとって、歩む道の見晴しがきくようになるということで、これまた嬉しい便りです。そもそも若い時分から直線の大好きな私でしたが(あまり関係ないかもしれませんね、失礼!)。 今の私の使徒職はいわゆる「事務方」です。修道会のマニュアルに沿って、書類などをしかるべき方法論で作成し、しかるべき場所に収め、しかるべき人々にわたるようにします。それは会の歴史を過去、現在、未来へと渡していくみせつりのバケツリレー、その道筋をまっすぐにする仕事です。基本的に人海戦術ですが、けっこう待降節みたいな仕事ってことですかね。しんどいことはたくさん。でも、私が石灰を引いて整えた直線トレイルを主が通って下さっている!と信じます。預言者イザヤと共に私も秘書室で声なく叫びます。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」アーメン。

さとう みちよ

 

2014年11月30日 待降節第一主日 マルコ福音書13・32-37

「目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33)

わずか6節の中に「目を覚ましていなさい」という言葉が、三度繰り返される。それだけ重要なのだ。しかし、この箇所を祈っているといくつもの問いが浮かんでくる。 私は本当に目を覚まして生きているのだろうか。目を覚ましているつもりで、眠っていることはないだろうか。そもそも、キリスト者として「目を覚ましている」とは、どういうことなのだろうか。 イエスは、起きていることが仕事の一部である門番のように「目を覚ましている」ことを、私たちに要求される。しかも、目を覚ましていなければならない時間帯は夜である。人々が通常起きている昼間ではなく、「夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方」という、人が眠っていて当然の時間帯にしっかりと目を覚ましていなければならない。それは、今、自分が生きている時代にあって「逆らいのしるし」であり続けることなのかも知れない。 夜通し眠ることなく起きていることは辛い。自分の力だけでは起きていられない。だからこそ、私が目覚め続けていたいのなら、私の「主人」は私ではなくイエスであることを認め、へりくだってイエスに従わねばならない。イエスによってのみ、私たちは「目を覚ましている」とは何であるかが分かり、目覚め続けることができるのだから。

みよし ちはる

 

2014年11月23日 王であるキリスト A年マタイによる福音 25・31-46

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしに したのである。」
(マタイ25/40)

有名なミケランジェロの最後の審判の絵をご存知でしょう。逞しいイエスさまが中央に座し、右の手を高く上げて裁いています。左から上昇し天に昇る人びと、右上から下降して暗闇に呑まれていく絶望的な叫びが聞こえて来そうな人びとの描かれている絵です。 こんな日がやって来ることはない、と高を括っていてはいけません。「目覚めていなさい」と、イエスさまは予めたとえばなしの中で話されました。いただいた人生は長いようですが、短いというのが実感です。与えられた仕事も、興味のあることも、十分にやり終えないうちに神さまのみ前に呼ばれるような気がします。その時される質問は、すでに分かっているのです。何というご親切でしょう。イエスさまから聞かれることはたったの一つ、「わたしの兄弟にしてくれたか?」だけなのです。 いただいた一回限りのいのちです。わずかなものに忠実でありましょう。精一杯兄弟たちのためにこのいのちを使い尽くしたいものです。天の父は喜んで迎えてくださるはずです。

しながわよしこ

 

2014年11月16日 年間33主日A年 マタイによる福音25.14-30

「忠実な良い僕」(マタイ25/21)

主人は旅に出る計画があった。そこで主人は信頼している3人の僕に、各自の力量に応じて自身の財産を5タラントン、2タラントン、1タラントンと各自に託して旅に出た。 5タラントン、2タラントンを託された2人の僕たちは、主人から任されたタラントンを自由に運用し自身を賭けて倍にした。しかし1タラントンを預かった僕は1タラントンを使わず「穴を掘り主人の金を隠した」。僕の態度の奥にあるのは主人の監視の目への恐れであったのか、少なくても彼は自由でなくタラントンに対しての責任を取らない傍観的行動を取っている。18節の「1タラントン」の言葉が後で「主人の金」になっている。主人の意図を勘違いをして理解したかのようだ。時を経て主人が旅から帰る。3人は主人に報告をする。主人の信頼を受けてタラントンを倍返しした2人は忠実な僕として主人の喜びに招かれる。一方主人を恐れ主人の思いに程遠かった僕は叱責を受け預けられたタラントンまで取り上げられる。 イエスの時代、タラントンは質量の単位であり通貨単位としても使われたようだ。今日、「わたしにとってタラントンとは何か」を思い巡らすのは良いだろう。主の僕のひとりであるわたしが主から預かっているタラントンについて祈る時、キリストと出会った恵みとしての人生、いのち、希望、日々の時間と出来事が見えてくる。これらを如何に運用し忠実な僕として創造的に生き仕えるかを絶えず祈りたいと思う。

ひさもり たえこ

 

2014年11月9日 ラテラン教会の献堂 ヨハネによる福音2.13-22

今日はラテラン教会の献堂の祝日です。第1朗読エゼキエルは神殿について語られ、第2朗読パウロのコリント教会への手紙の中に、あなた方は神の神殿 神の霊が自分たちの内に住んでいると語っています。

「神殿から商人を追い出す」(ヨハネ2.13-17)

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上っていかれた....そしてイエスは縄で鞭を作り羊や牛をすべて境内から追い出し「この様なものは、ここから運び出せ、わたしの父の家を商売の家としてはならない」弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(詩編69.10)と書いてあるのを思い出したと。 商人たちを追い出すイエスの混り気のない神の憤りに触れ、神の義と愛、慈しみのまなざしの前にひたすら小さく主のまなざしから隠れたい思いを知らされる自分をみるのである。主のまなざしのもとに選びや決断をせまられるとき、日常生活の中で不完全さにゆれ動く中で毅然と立ち向かっているであろうか。しかし、日々揺れ動く中にも義と愛のまなざしのもとに霊に導かれたい、そして歩こうとしている自分を見る。 ユダヤ人の問いに対してイエスは、神殿はご自身の体のことであり、イエスが死者の中から復活された時、「弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られたことばを信じた」とある。いかなる時であっても信じて生きることを願いたい。 今日の現実の世界、苦しみ、悲しみ、困難の理不尽の最中にあっても神の神殿、神の霊が私たち一人一人の中で働かれていることを信じ、神を伝え人々への限りない神の期待、限りない希望の中に日常の営みを主のまなざしのもとに歩いて生きたいとねがう。

のばやし ゆいこ

 

2014年11月2日 死者の日 ヨハネによる福音6・37-40

「わたしの父の御心」(ヨハネ6・40)

今日の福音には「御心」という言葉が3回出てきます。「父の御心」を果たすことはイエスの使命でした。このみ言葉は私にイザヤ55・8~11 を思い出させます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる・・・天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。・・・わたしの口から出るわたしのことばもむなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ私が与えた使命を必ず果たす。」 私は若い時、自分で自分の道を一生懸命探し、「我が道」を行き、いろいろな壁にぶつかっていました。神に聴く祈りをするようになってから、「私の望み」は必ずしも神が望んでいらっしゃることと同じではないということに気づき、それからは「あなたの望みを教えてください」と祈るようになりました。私は「本当の愛」を強く求めていましたので、それをキリストの中に見出だした時は、畑に隠された「宝」を見つけたように歓喜し、以来「本当の愛」=イエス・キリストを求めて歩み続けてきました。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠のいのちを得ることであり・・・」というみ言葉に御父の思いを知り、イエスを信じる意味と喜びが深くなってきたのです。「永遠の命」が与えられる中に真実の幸せがあり、これこそが私が心から求めているものであり、神のお望みに一致することだったのです。死者の日の主日に「死んでも生きる」命を思い出させる福音に心から感謝しています。

のもと よしこ

 

2014年10月26日 年間30主日A年 マタイによる福音22・34-40

「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・30)

今年の6月に、平和学習で広島を訪れた東京のあるカトリック系小学校の6年生は、8月の広島土砂災害のニュースを聞き、広島で安佐南区と安佐北区の老人ホームのおじいさんやおばあさんたちと交流する場を持ったばかりなので、他人事とは思えず何とかして力になりたいと全校に献金を呼び掛けて、1週間、毎朝、正門前で自主的に募金活動を行い広島教区へ災害支援金を送って下さったとのことです。 このことから、「隣人を自分のように愛する」ことは特別なことをするのではなく、自分と周辺に心を向け、お互いにお互いの存在を認めて丸ごと受入れ合うこと。それは具体的に愛し合う行為へと向かわせるのではないでしょうか。同時に内的、外的行為の赦し合いと奉仕し合う行為にもなるのだと分かります。 イエスは律法学者の質問に対して、「主である神を愛する」(申命記6/5)ことと「隣人を自分のように愛する」(レビ記19/18)ことは同じように重要だと旧約の掟を引用して言われています。 そのイエスは最後の晩餐の時に「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13/34)と弟子たちに言われました。 「隣人愛」という表現だと一方向になるが、イエスが云われているのは双方向の愛のコミュニケーション、交わり、「相互愛」だと積極的な行為の表現に置き替えていらした故奥村一郎神父様の言葉を思い出しました。(神父様がいわれた言葉通りではないが) わたしたちはキリストと他者との関係性を生きるもの、交わりを生きるものに創られているのです。

やすま ふさこ

 

2014年10月19日 年間29主日A年 マタイによる福音22・15-22

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22.21)

ファリサイ派とヘロデ派が一緒になってイエスを罠にかけようとした質問が、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」というものでした。 この質問を見て、私は、イエスを陥れようという意地悪さよりも、質問の奥にひそむ不安感の方が素直に気になりました。現代、すでに政教分離の時代にあって、税金を納めることと自分の信仰を守ることに何ら矛盾はありません。頭のどこかで国のことは国のこと、信仰のことは信仰のことと分けて考えているからです。けれども、聖書の時代、当時の世界を支配していた「ローマ帝国」という得体の知れない権力に、民族、国、約束された希望など、全てが飲み込まれるかもしれないある種の恐怖におそわれていたなら、自分たちのアイデンティティを確認するためにこのような質問が出ても不思議ではありません。今の私ならこう言うかもしれません:「グローバリゼーションの波にどっぷり浸かるということは、信仰に適っているのでしょうか」。「悪いもの」と「良いもの」の間の識別ではありません。「一般的に良いと言われているもの」と「より良いもの」の間の識別をどうすればいいのかという問題です。 今日、イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に…」と言われました。こうして私の深層に巣食うファリサイ派とヘロデ派と同じ不安感をイエスはバシっと切り分けられ、そのおかげで私は神さまにお返しすべき「もの/こと」を再確認しようと思い直すのです。

はら けいこ

 

2014年10月12日 年間第28主日A年 マタイによる福音22・1-14

「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた…別の家来たちを使いに出した。…『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。』」しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」…   (マタイ22・1-14)   王は神、王子はイエス、家来たちは預言者、招かれていた人々はイスラエルの民が暗示されている。そしてこの招かれていた人々は、私たちでもある。私たちも、今、一瞬一瞬、神から招かれている。婚宴という大きな喜びの宴へと。そこには私たち一人一人を心底愛しておられる主イエスがいて、魂まで満たされるような美味しい食物、世界中の兄弟姉妹たちとの温かい関わりがあり、すべての人の涙はぬぐわれ、喜び踊る。それが天の国。 神様の呼びかけに、私はどう答えてる?当然のごとく無視?自分の予定している仕事をすませなきゃならないから? 私たちは天の国に今日も招かれている。それは例えば私にとって、自分の片づけたい仕事をしばし脇に置いて、目の前にいる人と心からの対話をすること?困っている人の緊急の頼みごとに応えて自分の時間を割くこと?私の心の中で静かに語られたイエスの呼びかけを聞いて、友に手紙を送ること? イエスの優しく謙虚な小さな声を無視するのは簡単。聞こえなかったと思い込むこともできるし、無視し続けていたら本当に聞こえづらくなっていくかもしれない。 イエス、あなたをそっちのけにしないでいたい。あなたの誘いを断ることなく、喜びの宴に今日、参加することができますように。

きむら きょうこ

 

10月5日(日)年間第27主日A年 マタイによる福音 21・33-43

「もう一つのたとえ話を聞きなさい。」(マタイ21・33)

「定礎 昭和62年4月」修道院の隣に建つ小さなビルの片隅にその定礎石は、はめ込まれていました。こんな小さなビルでも定礎石があるんだなぁ・・・と眺めながらの夕方散歩、虫の音が聞こえてきます。もうすっかり秋は深まっているのですよね。 さて、主日の福音ですがぶどう園は大変なことになっています。サスペンスの気配・・・? 皆さんは「サスペンス」の語源をご存知でしょうか?人の心を宙吊りにするという意味で、ズボンのサスペンダーもそこからきているとのこと。ある状況に対して、不安や緊張を抱いた不安定な心理を描いたものがサスペンスなのだそうです。 誰も雇ってくれないまま日が暮れ、もうダメだと絶望感に陥っていたあの日「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と声をかけてくれた主人のことを。その時の興奮と喜び、信じられないような思い、しかし、心に不安が湧き起こり大きくなっていくと忘れてしまうのです。 私たちは声をかけていただいたことを。収穫の時を喜んで主人に伝えた日のことを。心が宙吊りになる状態とは、どのような苦しみでしょう。御父はその苦しみをわかっていてくださる。だから何度でも、思い出させてくださるのでしょう。あなたは一人ではないことを。 大切な御子を遣わすことで。さぁこの十字架の上にあなたの家を建てなさいと。 どんなことがあっても揺らぐことのない定礎を私たちはいただいているのです。 福音はサスペンスではない。 何度でも、イエスは「もう一つのたとえ話を聞きなさい」と語りかけてくださるのでしょう。

はしもと  あきこ

 

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