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Sr.二條あかねがお世話になった皆さま

 
すでにご存知と思いますが、2月2日、Sr.二條あかねは、チャドのビトキンという町からヌジャメナへの帰路、自動車事故によって帰天致しました。
皆さまにはお祈りをいただきありがとうございました。
Sr.二條のご両親及びSr.林管区長は13日、現地から無事帰国致しました。
チャドでは千人以上の方々のご参加のうちに、通夜と葬儀ミサが行われ、Sr.二條は彼女が愛したチャドの土に眠りました。
すでに、2月21日には、東京と広島の二箇所で葬儀ミサ、追悼ミサが行われ、また、3月20日は援助修道会本部にて追悼ミサ、納髪を終えることができました。多くの方にご参列いただきましたことを、ここに感謝申し上げます。
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Sr.二條あかね葬儀ミサ
2009年2月21日(土)、聖イグナチオ教会にて


説教  雨宮慧神父

聖書朗読
◆第一朗読:ローマの信徒への手紙 5章5−11    

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

◆福音朗読:ヨハネによる福音書 14章1−14      
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

説教
わたしが大学に入った時、わたしは神を信じるのはおばけを信じるくらいおろかなことだと考えていました。たくさんの方々に出会って、こんなふうに変えられてきました。人の前で今、説教をするようになっています。自分でも不思議なことだと思います。しかし、この不思議さは受け入れやすい不思議さと言うべきだろうと思います。しかし、わたしたちの人生の中には、受け入れ難い不思議さ、不可解と言った方が良いこともあります。将来を渇望されていて、しかも多くの人に愛され、働いていた人が、突然わたしたちの前から姿を消す。不思議というよりは、不可解としか言いようがありません。このような不可解な事柄に出会った時、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。あきらめるという方法もあるかもしれません。しかし、あきらめというのは、何も問題が解決したわけではありません。他の機会にまた不可解さに苦しむということも起こりかねないと思います。今日わたしたちが聞いた聖書の言葉、それをもう一度わたしたちは考え直さねばなりません。
今日の第一の朗読の中で、「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とパウロは言っています。しかも、その前に、苦難が忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを、わたしたちは知っていると書いています。このような希望をわたしたちはどのようにして受け止めていくことができるのでしょうか。滝に打たれて、精神力を強めて、どんな時にも希望を持つようにする、というようなことなのでしょうか。パウロは、わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからだ、と書きます。ですから、パウロの教えによると、滝に打たれるということよりは、わたしたちの心に注がれている聖霊によって、わたしたちが希望を持つことができると言います。旧約聖書の中で、アブラハムは主を信じた、そのように訳されていますけれども、直訳すればこんなふうになると思います。主において、自分を確かにした、ということになるかと思います。たしかに、自分を確かにする道、それは大事でしょうけれども、アブラハムによると、主の中で、自分自身を確かにした。わたしたちが精神力を鍛えることによってではなく、主の中で自分自身を確かにした。それが信じるということなのです。わたしたちに根拠があるのではない。主の言葉に希望の源泉がある。ですから、今日の福音の聖書の冒頭で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」で始め、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行う」といった文章で閉じられています。自分を確かにする。どこにおいて自分を確かにするのか。
ヨハネは創世記よりももっと詳しく、どこにおいて、自分を確かにするのかを書いています。三つのことをあげていると言っています。一つは、「わたしの父の家には住むところがたくさんある、もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」と言います。「あなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える」。この言葉の中で、自分を確かにします。二番目のことです。「わたしは道であり、真理であり、命である」。わたしたちは道を持っています。真理と命に到達する道を持っています。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。このような道を持っている、ということにおいて、自分自身を確かにします。三番目のことです。「わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではない。わたしのうちにおられる父がその業を行っているのである。この言葉の中で、わたしたちは自分自身を確かにします。おそらく、不可解を乗り越える道があるとすれば、今日、イエスがわたしたちに語りかけた三つのものの中で、自分自身を確かにするということなのだろうと思います。受け入れやすい不思議さ。受け入れ難い不思議さ、不可解なこと。誰が受け入れ難いと判断しているかと言えば、わたしたちの思いです。しかしわたしたち人間には限界があります、限界がありますから、神の思いとは違った思いの中にあるということです。そうであれば、わたしたちにとって、受け入れ難いことなのであって、神にとってはまた別な意味があるのかもしれません。
どうかわたしたちが、今日、どの言葉の上で、自分自身を確かにしようとしているのか、もう一度思い起こすことができますように。





Sr.二條あかねの証言です

2008年現在、彼女は中央アフリカの
チャド共和国に派遣され、
チャド人のシスターや、フランス、
メキシコ、イタリアのシスターたちと
一緒に、共同体のなかで、
元気いっぱい生き、大学生のための
司牧の現場で働いています。
ご紹介するのは、
彼女が派遣前に書いてくれた
彼女の証言です。


「主の望みにこたえること」
二條あかね



 「それで、あなた修道生活についてはもう考えなくていいの?」との問いに「えっ?よくない・・・」と反応している自分の心に気がつき、そこから始まったキリストに従うこの道を歩き始めて、今年でちょうど10年目を迎えたところです。
  「私を限りなく愛し抜いてくださる神様は、私に何を望まれているのだろう?」この質問が言葉にできるようになる以前から始まって、現在まで、そしておそらくこれからも、日々の生活の中でこの質問を問い、そこに応えていくことが私の中軸に置かれています。

  出生、幼少時代を外国で過ごしたことは、子供だった私に「私は純和製の日本人ではない」「普通と違う」という意識を芽生えさせ、以来私は「この意味はなんなのだろう。神様は私にどんな目的を持ってこうなさったのだろう」という質問を常に持って歩いていました。「すべての人が創造された目的に達するように手伝う」援助修道会の会員として、「私自身も自分が創造された目的を知り、主が私に望まれる望みにこたえたい」と私はいつも希望しています。それは日常の生活の中でも私が大切にしたいと思い、また、初誓願後に派遣されたエリザベト音大での学生司牧という使徒職の場でも、学生たちと過ごす毎日のかかわりの要になっていたことです。
  学生たちに対し、「一人ひとりが大切な存在、神様のユニークに創られ、愛されていることに気づき、こたえる望みを持ってほしい」といつも願っていたものです。


  有期誓願期を過ごす中で、主は次第に、会の声を通して私に語り始められました。
  「チャドの共同体で、あの地の人々と共に歩む会員が必要だ」。最初はこう答えました」
  「ええ、でも、私はフランス語もアラビア語も知りません。チャドはまったく知らない地です」
  けれどもこの声は、私の中では聞き逃すことができない声として、繰り返し、繰り返し響くのです。私は、主が広島よりももっと普遍的で切迫した招きに、私を呼ばれていることを知りました。「信頼のうちにまず準備の一歩を歩みだすように」と招かれた主は、初めてこのご自分の望みを示された時から、実に8年の時を使って準備させ、今、私をチャドの地に送ろうとしておられます。「私のフランス語はまだまだ足りない」「あの厳しい環境に適応できるのかしら?」現実に沢山の不安も持っていますが、私はチャドへ送られたいと深く望んでいます。それは、この派遣を「主が私に望み、希求しておられる」とはっきり分かっており、私はその望みに信頼のうちに応えたいからなのです。





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