ラファエラ 高木慶子

ら

「あなた、幸せ?」
「幸せです」

そう答えると、満面の笑みを返してくれる。
それがいつものラファエラさんとの挨拶。
その笑顔に癒されてきた者の一人として、またその姿を見つめる者として
援助修道会会員であることについて聞いてみる。

 

私の変わらない望み

「煉獄援助修道会」と言わないと私は困るのです。「援助修道会」と言うと、何を援助するのですか?とまた聞かれますから。
私が入会したのは今から56年前頃ですが、その頃は「煉獄」という言葉が生き生きとイメージ化できました。教会でも、よく絵で説明されていましたね。燃える火の中で、苦しんでいるはずなのに、喜んで神さまの方へ手を伸ばし祈る姿が、子どもながら不思議でした。当時は、この世から神さまのところに行くには不完全なままであるため、償わなくてはならないと教わっていましたから、死後清めの場所としてある煉獄への興味、関心、信心は幼い頃から持っていました。

大学3年の初め頃イエズス会のシーファー神父さまに出会い、面会をしていただいていました。それで「シスターになりたい」と申しあげたら、細かいことは何もお聞きにならず、ただ「聖人になりたいですか?」と聞かれました。それで私は「はい、聖人になりたいです。」と申しあげると「だったら煉獄援助修道会に入りなさい」と言われて、この修道会を紹介していただきました。幼い頃から煉獄の霊魂への信心を深く持っていたことも何もお話していなかったのに「煉獄援助修道会に入りなさい」と言われたときは、とても嬉しかったですね。

そして、修道会の管区長様を訪ねて「私は聖人になる、ということでこちらを選んだのですがなれるでしょうか?」と伺いました。そうすると管区長様はほほえみながら「なれます」と言われました。それで決めました。私が聖人になりたいというのは、清く、正しく、美しくではない。ただ神さまの愛に満ち満ちた、神さまが喜んで下さる者になりたいということなのです。それは、神さまの恵みであって、人間の努力で出来るものではありません。この世では完成できないかもしれませんが、恵みによって神さまに近い心の状態で生きていきたいというのが、私の入会からの変わらない望みなのです。

 

あなたは今日からスール・マリー・ラファエラと呼ばれます

私の頃は「着衣」というのがあって、その時に修道名をいただいたのです。その修道名は3つまで希望することができました。私は、マリアさまに関わるお名前を修錬長さまにお願いしました。ところが着衣当日呼ばれたのは、考えてもいない名前「ラファエラ」でした。その頃ラファエラと言ったら、男性の名前のようで・・・ 一晩中泣き明かしました。その頃は何もわかっていなかったのですね。

今から約30年前、ラファエラという天使の名前が「神の癒し」という意味を持っていたことを知ったのです。 その頃、私は臨終にある方のためのターミナルケアに関わっていました。病気の方たちのそばで、悲しみ、苦しみに寄り添いながら、「神さまは待っていてくださいますよ」「仏さまが慈悲深く迎えてくださいますよ」と声をかけ続ける毎日でした。それで気づいたのです。修道会に呼んでくださったのも、ラファエラという名前で私の生きていく使命を与えて下さったのも神さまだということを。
そして私は今も、ターミナルケア、グリーフケアに関わり多くの方々に出会わせていただいています。

 

創立者の直観に生きたい

修道会の創立者が直観としていただいた「死を通して清められていく」それは生きている間も、死を通しても清められていくということです。そのことを多くの人に伝えなさいというメッセージだったと思うのです。
不完全なまま人生を終えて、神という完全な方に出会う時、時間のない一瞬のうちに清められると思うのです。でも神さまから離れていればいるほど、その出会いは痛い。近くにいれば、その衝動は軽くて済みます。私にとって死後の煉獄のイメージはそういうものなのです。

しかし、私たちは今を生きており、この世で様々な体験をします。谷を歩き、山を歩き上がっては、落ち込みます。日々が喪失体験の連続です。今日雨が降ってほしいのにお天気だった。お天気であってほしいのに雨だった。自分の思い通りにはなりません。挨拶をしたのに知らん顔されて落ち込む。これも喪失体験です。家族、親戚、友人の死、自分の健康、天災。小さな喪失、大きな喪失がありますが、その悲しみ、苦しみのど真ん中におられる方々が、この世の煉獄を生きているのだと思うのです。

一人一人が落ち込む、イライラする社会情勢にあって、神さまから私は、煉獄援助修道会であなたは花を咲かせなさいと言われました。その花は何かというと、「ラファエラ」という自分の癒しだけではなく、痛み悩んでおられる方々に「大丈夫よ。神さまが、仏さまが、大いなる方がちゃんと見守って下さっているのよ」という言葉を投げかけることなのです。苦しみに表れるその意味も考えながら、神さまに近づいていくプロセスに共にありたいと思うのです。

 

共同体生活は私のいのち

修道生活を歩むことは清めの道です。苦しみの時をいただくゆえに、神さまからの恵みの大きさを実感します。結婚は大抵、自らの選んだ相手と暮らしますよね。しかし共同体生活は自分では選べない方々と暮らします。何もかも違っている方と生活するには、自分の感情に留まっていては暮らせません。それは神様の選びの中に入れていただくことです。自分から出て、神さまの力によって生きる恵みをいただくのです。

私があなたとうまくいかない・・・そう思っている相手はもっと私のことでつらいでしょう。100倍も1000倍も!だから、信仰共同体である私たちは、励まし合い、祈り合います。共同体生活で私たちは被害者にも加害者にもなりうる、しかし和解する術を知っています。神さまの愛によって集められた私たちですから。 共同体生活に招かれるということは、そこで清められていく、神さまに救われていることに日々気づいていくことなのです。

神さまが創立者に与えられた「清めの道」を、現代の方たちにわかるように言葉と行いで伝えたい。そして「大丈夫よ」ということを伝え続けたい。援助修道会会員として使命を生きる私は、そういう思いで生きています。

あああ
 

聞き手  橋本 晶子